家族ががんになっても希望は消えない。

母が肺がんステージ4になってからの記録です。希望は常にあると信じて日々を過ごしています。

苦しい時に自分を支えてくれたもの

皆さんこんにちは。もち丸です。

 

母が亡くなって半年以上が経ちました。最近は一気に高まるような悲しみは少なくなりましたが、ジワジワと感じる寂しさが無くなることはありません。

「あ~、母さんともう会えないんだ」、「もっと色々なことを話したかったなぁ」等ですね。母と一緒に病院に行っていた日々が懐かしいです。

 

母が病気になってからは「治療」、「緩和ケア」、「緩和病棟入院」等、いくつもの段階がありましたが、今回は苦しい中で自分を支えてくれたものをご紹介したいと思います。

一つ一つは本当にささやかなものですが、間違いなく自分を支えてくれたものです。

 

 

 

1、出来なくなった気分転換

本題の「自分を支えてくれたもの」をご紹介する前に、コロナや看護の影響により出来なくなった、以前の私の気分転換法を述べていきたいと思います。

それは主に、

  • バドミントン
  • 友人とのお酒
  • 小旅行

です。

 

私はコロナ前までは少なくとも週に一回はバドミントンをやっていて、大会にも参加するほどの趣味でした。元々はテニス仲間に誘われたことがきっかけです。

ところがコロナが流行り始めてからは母にうつすのが怖くなり、私は徹底的に自粛するようになりました。その結果バドミントンへの参加はもちろん、友人との食事や会うことすら自粛していました。

また以前は山や海等に一人で行き、散歩したり、名物を食べたり、お寺に行ったりして解放感を味わうことも気分転換の一つでしたが、それもやらなくなりましたね。

 

私は元々体を動かすことと人と話すことが好きで、辛くても人と話すことが出来ればなんとかバランスがとれていました。でもそれが一気に出来なくなりました。

それでも自分がコロナを母にうつしてしまう怖さの方が、行動出来ないストレスより勝っていて、苦しいながらも自粛を続けたのです。

 

ですが感染対策を徹底するということは、「人との接触を減らす」ことであり、「移動を控える」ということです。

そうすることで確かに母への感染リスクを軽減出来ていたと思いますが、「このままだと自分は狂ってしまう」と本気で思いました。

また動きたくても動けないまま時間が過ぎていくことにも大きな怖さを感じ、「なんとかしないと」と、強く危機感を持つようになっていったのです。

 

 

2、どうすればいいんだ

とは言え行動範囲を狭め、人との接触を避けている状況では、なかなか気分転換は出来ません。

その時の自分は「社会と切り離されてしまった」と思っていました。「他の人はどんどん先に進んでいる、自分だけが動けていない」と。

そして母の状況に関しては奇跡を祈りつつも、希望を持つことが難しい状態でした。そしてコロナも終わりが見えない。本当に八方塞がりです。

 

そのような状況ですから、ポジティブになろうとしたり、楽観的になろうとしても無理でした。

辛く苦しい時期が短期間であれば自分を叱咤激励して、前向きになる方法も有効だとは思いますが、長期的な辛い状況ではこのやり方は危険です。ますます自分を追い込みかねません。

 

私は「せめてコロナさえなければ」と強く思っていました。私の周りにも入院中の家族がコロナに罹りそのまま亡くなってしまった人、そしてコロナに感染したせいで家族の最後に立ち会えなかった人等、苦しい思いをした人が何人かいました。

ただそのような生活をするうちに危機感や不安が極限まで高まり、「この苦しく制限された状況でも、何か出来ることはないのか」と、探しもがくようになりました。

 

 

3、今この制限された状況でもやるしかない

そして「確かに今はとてつもなく辛い、そして行動を大きく制限されている」と認めたうえで、「今この制限された状況でも、多分出来ることがあるはずだ」と考えました。

そして思ったことが、「くだらなくても心に浮かんだものの中で、出来そうなことをやってみよう」ということです。(なるべくお金はかけずに!)

その代わり「人から見たら変に思われそう」、「今の自分がこんなことをやっていいのだろうか」という周りを気にする目や罪悪感がありつつも、やりたいことをやることを自分に許すことにしました。

 

すると「本当にささいなこと、だけども確かに自分が楽しいと思えること」や、この状況でも自分が取り組めることがあることがわかりました。

 

 

4、私を支えてくれたもの

ようやく本題です。ここに挙げたのは一例ですが、笑ってしまう位ささやかなものが多いです。

 

  1. 国家資格の勉強
  2. 毎週発売される雑誌
  3. スマホゲームのイベント
  4. ゼルダの伝説」の新作
  5. 自宅での筋トレ、マラソン
  6. 読書

等ですね。

他にも「がん哲学外来」や「精神腫瘍科」等、色々なもののサポートを借りましたが、今回は「自分一人だけで完結出来る」点にフォーカスして書きました。

 

①国家資格の勉強

私はこの苦しい時期に、「この状況でもスキルアップをしたい」と考えるようになり、資格試験受験を考えるようになりました。

例え現実逃避の一種だとしても、やっぱり何か目標があってそれに向かっている時って、少し気が紛れますからね。

そして本屋で「受験資格があり自分が興味のあるもの、そして少しでも就活に有利そうなもの」を探すうちに、ある資格に興味を持ちました。

ただその資格は難関資格の一つなのですが、何を思ったのかその時は「これなら自分でも出来そうだ」と思ってしまったんですよね。今思うととんでもない資格に手を出してしまったと思いますが...(笑)。

 

そして毎日勉強することになりましたが、勉強している間は気も紛れますし、少しずつ自分が進んでいるという実感を感じることが出来るので、始めてよかったと思います。

辛く希望が無いと思っている時、少しでも希望を持つことが出来ると、世界の見え方が一気に変わります。

辛くてもそれが期限付きであったり、希望が見えている時には人は踏ん張れます。逆に今が苦しく、かつその苦しい状況に終わりが見えない時は地獄です。だからこそ辛く苦しい時にこそ、希望の持つ重要性を強く感じるのだと思います。

この選択が自分にとってどのような結果に繋がるかはまだわかりませんが、少なくとも母の看護を続ける中では自分を支えてくれたと思います。

 

②毎週発売される雑誌

私は日々のささやかな楽しみとして、毎週「少年ジャンプ」を購入しています。この雑誌は母が病気になってから購読し始めました。

掲載されている漫画にはお気に入りの漫画が複数あり、子供の頃と同じように毎週ワクワクしています。(笑)

以前母が病院に通院していたのは月曜日が多かったのですが、ジャンプの発売日も月曜です。その為母が「いつも悪いねえ」と言った時に、私は「ジャンプのついでだから気にしないでいいよ」と言うと、母は笑っていました。

「いい歳してジャンプ?」と言われそうですが、「楽しいんだから仕方がない!」と割り切っています。

 

スマホゲームのイベント

私は「fate grand order(以下FGO)」というスマホゲームをプレイしています。

私は他のスマホゲームを知らないので比較は出来ないのですが、このゲームでは現実の季節イベント(クリスマス等)にあわせて、イベントが開催されることが多いのです。

私は母が病気になってから、「今年の花見が母さんと一緒に見れる最後の花見かなぁ」等と考えることが多くなり、季節の移り変わりや行事のことを、しみじみ感じることが増えました。その為ゲーム内のイベントにも季節の訪れを感じて、感慨深く感じるようになりました。

 

そしてFGOファンはイベントの季節が近づくと、多くの人が行事前特有の「ワクワク・ソワソワ感」を醸し出すようになるので、私にはそれがなんだか楽しく、「ちょっとした連帯感」のようなものを感じています。

そんなこともあり、このゲームは日々のちょっとした楽しみになってくれました。

 

④「ゼルダの伝説」の新作

この項目については本気で書くといくらでも文章が書けるので、かなり我慢して抑えますね。(笑)

 

ゼルダの伝説」というゲームシリーズの最新作、「ティアーズオブザキングダム」が2023年5月に発売されました。私はこのゲームの前作「ブレスオブザワイルド」にとてつもない衝撃を受け、大げさではなく救われたとすら思っています。

前作を購入したのはちょうどコロナが流行り始めた年のゴールデンウィークであり、例年ならバドミントン三昧なのですが、母の病気もあり私が自粛を開始した時期でした。

そしてその時からずっと強烈な閉塞感に苦しんでいます。

そんな中「この閉塞感を崩してくれるものがないか」と思っていた時に見つけたのがこのゲームなのです。

 

このゲームの魅力はたくさんありますが、その一つが「広大な世界を自由に冒険でき、行きたい所どこでも行ける」点です。(ヤバイ、もう長くなりそうだ)

※この画像は前作「ブレスオブザワイルド」です。

 

この部分が当時の閉塞感に苦しんでいた自分にとって大きな救いとなりました。

ゲームをやるのはもう何年ぶりだろうという状況でしたが、初めてプレイした時は子供の時に感じたような心からのワクワク・ドキドキを感じ、その世界に没頭しました。

そのような経緯から、その続編の発売が発表されてから、発売日を待ち望んでいたのです。

 

そして待ちに待った続編が発売され、プレイした感想は「やっぱりゼルダは最高だ」というものでした。

ただ発売されてから割とすぐに母の状態が急変しましたから、楽しさ100%とは言えませんでした。ですが広い世界を自由に冒険出来る解放感は本当に最高で、いい意味で現実逃避することが出来ました。

ゲームとして面白いのは当然として、苦しいことから少しでも気をそらせてくれる存在は、当時の自分にはとても貴重なものでした。

 

⑤自宅での筋トレ、マラソン

私はコロナが始まってから、スポーツサークルへの参加を自粛しています。

とは言え私にとってスポーツはなくてはならないものでしたし、運動量が減ったことでメンタルも崩れていきました。

そして次第に「このままではやばい!」と危機感を感じ始め、自宅での継続した運動と休日のマラソンを始めたのです。

 

もちろん運動したからと言って全てが好転するわけではありませんが、体を動かすと心身の老廃物が出ていく感じがして、少しは精神的にも落ち着く感じがしました。

日々の運動も一度習慣化してしまえば、逆に運動しないと気持ち悪くなるので、この習慣は今に至るまで続いています。

 

⑥読書

最後に読書です。

私は母が病気になってから様々な本を読みましたが、特に「夜の霧」「それでも人生にイエスと言う」等で有名なフランクルの本や、死生観に触れた仏教系(特定の宗派のものではなく一般書として)の本を多く読みました。

 

母が治療を始めた頃は奇跡を祈っていましたから、治療法やいわゆる「がんに効く」系の本をよく読んでいました。また自分を叱咤激励してくれるような本、前向きになるような本も読みました。

ところが頑張る期間が長くなり、状況が厳しくなってくるとだんだん疲れてきて、そのような本を読むことが苦しくなってきたんです。「もう頑張れない、頑張りたくない、疲れた…」というように。

そして「人生は大変なもの」、「人生は思うようにいかなくて当然のもの」というような本ばかり読むようになっていきました。まぁ辛い時ってそういう本の方が読んでいて落ち着くのですが...

 

やはり辛く苦しい時は前向きな気持ちになることは難しいですし、励ましも苦しいです。

ですがフランクルや仏教系の本は、「原因が自分になくても、どうしようもない避けられない苦しみはある」というような、ある意味「人生は苦しいもの」だと言ってくれているようで、少しホッとしました。

自分の苦しみは自分だけのものであり、単純に他人と比較することは出来ません。

それでも今自分が感じている苦しみの多くは、これまで同じように苦しんできた人間がいる苦しみであり、世界初の苦しみではないのだとも思います。

だからこそその苦しみを先に経験した先人達の言葉は、私の心に残りました。

 

 

5、最後に

私は母が病気になってからずっと苦しかったです。今も苦しいです。

そして母が闘病している時、「自分がこんなことをしていいのだろうか」という罪悪感と、「いやいや、今はこれくらいやったって罰は当たらないよ」という自分を許そうとする気持ちが、いつもせめぎ合っていたように思います。

でも「制限された状況で楽しむことって出来るんだな」と少し感じたのも事実です。

 

私は母のことを無事乗り切ったとはとても言えません。乗り切ったのではなく、逃げられない状況をもがいていただけなんです。そうしたら最後の時が来てしまったという感じなんです。

 

今は少しずつ春が近づいてきたこともあり、これからのことを真剣に考えています。

ですが最近季節の変わり目で少し体調が悪く、中々落ち着かないんですよねぇ。どうしたものかなぁ。

 

なんだか最後は纏まりのない内容になってしまいましたが、この記事が少しでも皆様の参考になれば嬉しく思います。

気温差が激しい時期なので、皆様どうかご自愛くださいませ。

残る悔い【母のコロナ感染】

皆さんこんにちは。もち丸です。

2024年になりましたね。私は喪中ということで新年のあいさつは控えますが。今年もよろしくお願い致します。

 

今回の年末年始は母がいなくなってから初めての年末年始でした。少しはゆっくりすることが出来ましたが、やはり寂しいですね。母がいないことが当たり前となり、改めて母を喪ったことを思い知らされました。

 

今回は母が緩和病棟入院中にコロナ感染したことを纏めました。本来なら昨年のうちに掲載しようと思ったのですが、なかなか出来ずにいました。

新年最初から明るい話題ではありませんが、ここで自分の気持ちを整理していこうと思います。

 

 

 

1、母がコロナになった!

2023年の7月始めに病院から母がコロナに感染したという連絡がありました。職員から陽性者が出たことで入院患者に検査をしたところ、発覚したとのことでした。

私は連絡を受けた時、「コロナ!?マジかよ。あんなに気を付けていたのに」と不安のどん底に落ちました。

 

私達家族は感染対策を徹底していた方だと思います。特に私はコロナが流行り始めてから一度も友人と会わない、外食もしない等、出来る限りのリスク軽減に注力してきました。

とはいえコロナ感染はいつ誰がかかってもおかしくないという状態でもありました。

5類から2類に変わったと言っても感染リスクが減ったわけではありませんし、むしろ人々の意識や行動が変わったことで、感染リスクは上がったと危機感を持っていました。

 

念の為家族全員で検査をしましたが、皆陰性でした。もちろん検査の精度やタイミング等による見落としの可能性もありますが、家族全員が偽陰性だったという可能性はかなり低い気もします。

とはいえ私達は犯人捜しをするつもりはありませんでした。どのルートから感染が発生したのかはわかりませんし、母に関わってくれた病院関係者の皆様には心から感謝しています。

 

そして即座に面会中止、隔離が始まり、私は生きた心地がしませんでした。元々弱っている母にとって、コロナ感染は命に関わる可能性があるとのことでした。

とは言え私達に出来ることは何もなく、隔離期間が終えるまで無事乗り切ってくれるのを祈ることしか出来ませんでした。

 

 

2、母がコロナにかかるということ

母は肺がん、ステロイド服用、間質性肺炎抗がん剤治療の後遺症、血栓症、高齢等々、コロナ重症化リスクがこれでもかというくらい高い状態でした。その為母にとってコロナ感染は命に関わる可能性があり、だからこそ私は感染対策を徹底していたのです。

 

母の隔離期間中はこまめに病院と連絡を取り合っていましたが、幸い重い症状はなく、このままであれば面会を1週間後から10日後に再開出来るとのことでした。そして私達は悩みながらも、面会再開を10日後にしました。

 

 

3、父のことも大切だからこそ悩んだ

ここで10日後にしたのは、父のコロナ感染を心配した為です。本心ではすぐにでも会いに行きたかったです。

 

緩和病棟に入っている母にとっては10日どころか、1日1日がとても貴重です。コロナ抜きにしてもいつ状態が急変してもおかしくない。そして隔離期間中に急変し、会えないまま母が亡くなってしまう可能性もありました。

ですが同居している父も重度の呼吸器疾患を持っている為、そのことを考慮しての苦渋の決断でした。

その部分で1日でも早く母と会いたいという姉とぶつかりました。ですが私にとっては父も母も両方大切です。出来ることならすぐにも母に会いに行きたいのです。でも父のことを考えるとどうしても慎重にならざるを得ませんでした。

母に加え父に何かあったらと思うと、怖くて怖くて仕方ありませんでした。

 

 

4、苦しい中での救い

母は入院時には脳出血脳梗塞で自分一人では動けない状態でした。

同じ隔離期間でも自分でメールや電話等が出来る状態であればまた違ったのでしょうが、看護師の出入りも制限され家族も会いに行けない10日間は、母にとってどれだけ苦しい、心細い時間だったのでしょう。その時の母の心境を想像するのも怖いです。胸が締め付けられそうになります。

 

ただそんな苦しい中でも、看護師さんがとても親身になってくれたことは救いでした。

特に印象に残っているエピソードがあるのですが、家族で入院時必要なものを買いに行った時、なんと母から着信があったのです。

母はその時一人で携帯を使うことが出来ない状態でしたから、私はとても驚きでした。

「何かあったのか?でもそれなら病院の番号から来るはずだよな」と思いながら、恐る恐る電話に出たのですが、なんと看護師さんが携帯を母の耳元にあてて電話してくれたのです。

 

私はその気遣いに涙が出ました。看護師さんも母との接触に注意しなければならないはずなのに、その行動をとってくれたのです。看護師としての仕事の範囲を超えたその心遣いにどれだけ私達が救われたことか。

もちろんスムーズには話せず途切れ途切れの会話ではありましたが、本当に嬉しかった。

そして隔離期間が解ける10日が、無事過ぎてくれるのを祈りました。

 

 

5、会える喜び

そして長かった隔離期間が明け、私達は母に会いに行きました。

 

今回病棟で何人が感染したのかはわかりませんが、緩和病棟にいる方は全員重症化リスクが高い人達です。その為コロナ発生前と比べて院内の動線が大きく変わっていて、母がコロナに罹ったという事実を突きつけられた気がしました。よく踏ん張ってくれました。

 

そして病室に入ってすぐに「母さん!長かったね」と声を掛けたら、「長かったよ~」という言葉が返ってきました。脳出血の後遺症でスムーズに会話することが難しかった母が、はっきりとした言葉でそう言ったのです。

私はその言葉を聞いてたまらなくなりました。「どれだけ心細かったのだろう。一人にさせてしまってごめん。」と思いました。

覚悟は出来ずとも母が急変する可能性は常に頭にありましたから、本当に嬉しかった。でも今思えばその会えなかった10日間は、あまりにも大事な時間の喪失でしたね。

 

普通人にとっては10日なんて大したことないのでしょうが、緩和ケアに入っている人にとっての10日はとてつもなく貴重な時間です。母のいた病院の緩和病棟での面会時間は1日30分でしたから、30分×10日=300分。つまりは5時間程の時間です。でもこの5時間が貴重なのです。

 

また軽症だったとは言え、コロナ感染は母の体力を大きく削ったように思いました。

健康な人ならば多くの人が徐々に回復していきますが、母の体力は何もなくても減っていく一方なのです。昨日よりも今日の方が体力が落ちている状況なのです。その為あのタイミングでのコロナ感染はかなり辛かったですね。

実際母が直接的には何が原因で亡くなったのかはわかりません。言い方は悪いですが、母の死因は肺がんと転移性脳腫瘍になると、緩和病棟に入った時点で決まっていたのです。

 

 

6、最後に

今回のことは思い出すのが辛い部分もありますが、とにかく外に出してしまいたいという気持ちもありました。

 

コロナについては人によって捉え方が大きく異なると思いますが、その点について他の人と論じるつもりはありません。そもそも何が正しいのかはほとんどの人が分からないものだと思います。

結局は誰かの提示した情報から、自分なりに整理した考えを作るしかありません。もはやバイアスのかかってない意見というのは無いでしょう。でもそれも仕方のないことだとも思います。

 

私が改めて思ったことは、母が最期まで頑張って生き抜いたということです。

まだまだ悲しみ・虚無感は大きいですが、母からもらったもの、託されたものが私にはたくさんあります。それらは私にとってとても大切なものです。

改めて母に心から感謝をします。ありがとうございました。

親孝行について

皆さんこんにちは。もち丸です。

最近急に寒くなりましたね。私は暑さにはまぁまぁ強いのですが、寒さには弱くすぐお腹がゴロゴロしてしまいます。暖かった日が懐かしいです。

 

母が亡くなってからもうすぐ4ヶ月が経ちます。少しずつ慣れてきたような…それでいて寂しい、もう一度会いたい、というような気持ちが強くなってきたような複雑な心境です。

 

今日は「親孝行」をテーマに書いていこうと思います。

私は「自分がしたかった親孝行」は全然出来なかったと思っていますが、母にとっては少しは力になれた部分があったのかなとも最近少し思い始めました。

その辺りを少し振り返ってみたいと思います。

 

 

 

1、自分がしたかった親孝行

この部分についてはこれまでも何度か触れてきましたが、私のしたかった親孝行の中に「経済的な親孝行」と、「子供や家族を見せる」といったものがあります。そしてこの親孝行は全く出来なかったという悔いがあります。

例えば何か大きい買い物をする時に「全部出すよ」とか、クレジットカードを渡して「これ使っていいよ」と言いたかったのですが、未熟ゆえにそれはほとんど出来ませんでしたね。

今までお世話になった分、少しでも返したかったのですが…

 

それと結婚や孫を見せてあげることも出来ませんでした。

私は結婚願望は強い方だと思います。ですが様々な理由で結婚に積極的になれないまま、年齢を重ねてしまったと思っています。

もちろん結婚等が親孝行に直結するとは限りませんが、私は母にその姿を見せたかったなぁと思います。

 

 

2、孝行したいときに親は無し

私は今この「孝行したいときに親は無し」という言葉の重みをひしひしと感じます。

私はこれまで母に何度も「親孝行したいから長生きしてね」と伝えてきました。そしてその度に母は「なるべく早くしてね」と笑っていましたが、間に合いませんでした。

してもらうばかりでほとんどしてあげられなかった。それが私の心に強く残っています。

 

母が治療をしていた時も現実から目を背けていたわけではありませんでしたが、「まだ大丈夫」、「奇跡が起きるかもしれない」と願っていました。

ですが実際に母が亡くなると、本当に自分は全てが遅すぎると思わずにはいられません。

そして「究極的には人間は一人なんじゃないか」という、恐ろしい考えが度々浮かんできます。皆その事実に直面しないで済んでいるだけ、あるいは目をそらそうとしているだけで。

 

「いつか」、「これが達成出来たら」…そんなふうに今達成出来ていない事実に対し、将来に希望を託してそう思おうとしますが、私は間に合わなかった。

やってあげたかったこと、買ってあげたかったもの、見せたかったものは、それこそ数えきれない程ありました。でももうそれを叶えることは出来ません。

仏壇にお供えをしたり、話しかけても正直虚しいです。つくづく自分は駄目だなと思ってしまいますね。

 

 

3、周囲からかけられる言葉

ですが他者から見た私の印象は少し違うようです。

 

私は母が病気になってから、上で書いたような心情を何人かに話してきました。

病院の看護師、医師、ソーシャルワーカー、母の友人等々です。

幾分私を励ます意味合いがあったのかもしれませんが、皆「あなたは充分に親孝行を果たしているよ」と言ってくれるのです。

私はその言葉を素直に受け取れてはいないのですが、今考えるとその言葉には一定の真実があったのではないかとも思います。

 

実際母は生前に、私のことを心配はしつつも「感謝している」という言葉を他の人に話していたようです。もちろん私自身母から何度も感謝の言葉を聞きました。

ですが上で述べたように、私はしてあげられなかったという想いが強いです。

「私にかけてくれた言葉は本心なのだろうか?」。もちろん人に確認したとしても「本心」と答えてくれるでしょうが、その言葉を素直に受け取り、自分の安堵に変えることはまだ難しそうです。

 

 

4、自分がしてあげられたこと

一方私が母に対して出来たことと言えば、

  • 母の通院にほとんど付き添ったこと(車での送り迎え含む)
  • 通院・入院や保険等の各種手続き、外部とのやりとり全般を担当
  • 家事手伝い
  • 買い物等お出掛けフォロー
  • 診察や治療説明時の対応フォロー、診察内容まとめ

等でしょうか。

 

こうして書いてみてもあまり大きなものはない気もします。やはり自分がしてあげたかったことに比べれば、天秤は釣り合わないような気がします。

ですが思い出すと母から「本当にありがとう」という言葉は何度ももらいました。

今この文章を書いていても色々思い出して泣けてきます。

 

 

5、最後に

やはりブログはいいですね。自分の気持ちや考えを惜しみなく表現出来ます。

最近母関連の手続きが落ち着いたのですが、その分考える時間が増えました。今は何かから逃げるように就活や資格の勉強をしています。

後少し気になるのが、母がいなくなったことで家族間が少しギクシャクしていることです。特に父と姉ですね。

皆余裕がなく、家庭での役割が大きく変わったストレスも関係していると思いますが、出来ることならこんなキツイ時位穏やかに過ごしたいものです。

 

ただ母が亡くなる前に「今こうして母と過ごしている時間はとてもありがたいものなんだろうな」と、しみじみと感じる時が何度かありました。とても温かい時間でした。

出来ればもう一度あの感覚に浸りたいですが、それはもう叶いません。

 

最近急に寒くなり、今年が終わろうとしています。それがとても寂しいです。

毎年「今年の正月が家族全員で過ごす最後の正月になるかもしれない」とどこかで思っていましたが、とうとう来てしまいました。

色々と心身に負担がかかる時期ではありますが、皆様どうかお体にはお気を付けください。

「母がいない日常」が日常になってきた

皆さんこんにちは、もち丸です。

立冬を境に急に寒くなりましたね。

暑い日が続く時はこの暑さがずっと続くように思いますが、彼岸を境に確実に季節は変わります。「暑さ寒さも彼岸まで」とは昔の人は上手いことを言ったなぁと思います。

母が亡くなってからは季節の変化にさえ諸行無常を感じ、なんだか寂しいものがあります。

 

 

 

 

1、自分にとっての古傷が痛む

最近私は体調が今一つです。体に関しては胃腸の不調や手湿疹等が出てきましたし、精神的なバランスも少し崩れている気がします。

私は長年神経症に苦しんだ経験があり、心気症や強迫性障害パニック発作等も経験しました。随分前にその全てを克服したのですが、母の件からのストレスで少しぶり返したのかなぁと思います。

 

※ ※ ※ ※ ※

ちなみに心気症とはちょっとした体の違和感や不快さを、大きな病気の兆候ではないかと心配し、日々神経をすり減らし、病院に何度も行ってしまう状態を指します。

※ ※ ※ ※ ※

 

誰にとっても心配する部分・神経質になってしまう部分があると思いますが、これは中々しんどいんですよね。

 

 

2、私と違って立派だった母

そんな自分ですから、私は「母さんは本当によく頑張ったよな」と思います。

母は最初にがんが見つかった時点でステージ4でした。そして当初から治療目的は完治ではなかったのだろうと思います。それに対する怖さはどれほどのものだったのだろうか。私だったら耐えられないと思います。

私は一つ体に心配なことがあるだけで心は不安で埋め尽くされ、行動力が著しく落ちます。ですが治れば安心して動き出せます。

ですが母には常にがんがあり、それが症状をもたらし、改善も難しい。私なら決して笑ったりは出来ませんし、愚痴と文句を言い続けるでしょう。

 

ですが母からはそのような言葉を聞いたことがあまりありませんでした。

もちろん日々痛みや不快感等を訴えてはいましたが、「考えてもなるようにしかならない」といつも笑っていて、逆に私達家族のことを心配していました。

なんて凄い人なんだろうと思います。

病気がありながら、しかもそれを取り除くことが難しい、更には日々症状は増していく中で、母は笑い精一杯生きていました。心から凄いと思います。尊敬します。

私は今そのような精神状態から程遠い状態です。

 

 

3、迫ってくる日常

最近母に関する様々な手続きが少し落ち着いたところです。そうすると今度は日常で立て直していかなければならない自分の現実が迫ってきます。

他人にとっては私の母が亡くなったことには大きな関心はありません。もちろん母の死を悼んでくれる人はいますし、母の関係者には大きな喪失感があるでしょう。

ですが社会にはそんなことは関係ありません。日々時間は流れていきますし、止まっているのは私だけです。友人にもそれぞれ仕事や家庭があります。その意味で本当の当事者は私達だけです。なんだかやるせなさを感じます。

 

母が亡くなってから3ケ月程経ちましたが、以前に比べて「悲しい」という感情はだいぶ小さくなりました。ただ日常に母がいないことが寂しく、つまらないといった気持ちですね。

悲しみが小さくなっていくにつれ、母がいた時のリアルな感覚は少しずつ薄れています。これは別れのステップが順調に進んでいっているということなのでしょうか。

 

大切な人を亡くした人が、その人がいた時のリアルさを失わないということは、悲しみも全く変わらずに持ち続けているということなのかもしれません。それはそれでしんどそうです。

ですが「母がいない日常」に少しずつ慣れていくことと引き換えに、母のいた日常から距離が出来るというのもなんだか寂しいです。

 

 

4、皆そうなのか

私は以前NHKで、末期がん患者等に寄り添いスピリチュアルケアを行う、大河内大博さんという僧侶の方の番組を見ました。最初から最後まで泣きどおしでした。

 

緩和病棟に入っている方は、積極的治療を行いません。病院に入院しながらも「元気になって退院する」ことが目的ではなく、「痛みを軽減しその人らしく生きる時間を大切にする」という感じでしょうか。

その時間は患者自身もその家族にとっても、何とも言えない時間です。私は母が緩和病棟に入ってから(母が病気になってからずっとですが)、希望と覚悟の間で揺れながら、誰にも相談出来ない想いをずっと持っていました。

そしてその想いに関しては誰かにアドバイスが欲しいわけではありませんでした。というか解決出来る問題ではないですし、下手にアドバイス等欲しくありません。

スピリチュアルケアはそのような答えのない想いや問いに、寄り添ってくれるものなのだと思います。

 

その番組のなかで武田アナと大河内さんが自身の親を亡くされた話をされていたのですが、お二人とも私と同じ気持ちを抱えているようでした。

私よりも年上で人生経験をしっかりと積んできたように思えるお二方。しかも大河内さんは僧侶として厳しい修行を積み、多くの人の生老病死に関わってきた方です。

そんな二人でも今でも家族を亡くしたことに涙したり、苦しさや寂しさは消えていないようで、「あんなに立派な人でも辛いなら、俺が辛いのは当たり前だな」と思いました。

 

恐らく悲しみや喪失感は消えないのでしょう。ですが「消えない喪失感を持った自分」と、「前に向かって歩こうとする自分」、その一見矛盾するような自分が二人いていいと言ってもらえた気分です。

前向きになる必要もないし、無理に吹っ切る必要もない。苦しいままで生きていくことも出来る、そのようなメッセージを私は受け取りました。

 

 

5、最後に

母が亡くなってからもうすぐ3ケ月です。長かったような短いようなよくわからない気分です。

私は新卒時に一旦家を離れましたが、それから数年後にまた実家に戻り、それ以来母とずっと一緒に暮らしてきました。

これが普段離れて暮らしているのなら、今とはまた違った心境になっているのかもしれませんが、ずっと一緒に住んでいた分「居ない」ということを日々感じます。

 

やっぱり何歳になっても親という存在は特別なのでしょうか。どれだけ自分にとって大きな支えだったのかと思い知らされています。

「声を聞きたい」、「話を聞いて欲しい」…その思いはずっとあります。でももうそれは叶わない。この寂しさをこれからずっと持って生きていくのかと思うと、中々キツイですね。

 

治療が始まった当初は、私は奇跡を信じ希望を持っていました。希望があったから、そしてまだ母がいたから何とか踏ん張れていたのだと思います。治療していた頃は幸せでした。

これからは辛くとも生きていかなければならない。なかなかにしんどいですね。

日増しに大きくなる母の存在感

皆さんこんにちは。もち丸です。

母が亡くなってから2か月弱が経ちました。ただ母は今年6月末に体調を崩してからずっと入院していたので、家に母がいない生活は3か月以上になります。

 

とは言え以前は病院に行けば会うことが出来ましたし、喋ったり触れることも出来ました。ですが今はどんなに望んでももうそれは叶いません。辛く悲しいというよりも虚無感が大きいですね。

 

 

 

1、一区切りはついたが...

まだまだやらなければならない手続きは残っていますが、少し落ち着きだした今日この頃です。食欲もまぁありますし、睡眠も一応はとれています。

 

ですが毎日に張り合いがないんです。食事等の家事をこれまで以上にやらなければならないことも大変ですが、何よりも母がいないことが寂しいです。

外で美味しそうなものを見つけても、「あ~、もうこれを買っても喜んでくれる母さんはいないんだ」と言う感じです。

 

旅行等の大きいイベントでなくとも、本当に些細な会話が、今までどれだけ自分の力や癒しになっていたかということを、今痛感しています。

今は生きてくれていた時のありがたさと、自分の中で大きな拠り所を失ってしまった喪失感を日々感じています。

疲れたなぁ。

 

 

2、もっと出来たことがあったはず

私にとって悔やまれるのは、「してあげたかったことをしてあげられなかったな」ということです。これは治療に関しても親孝行に関してもです。

 

  • 「あの時ガンマナイフを受けたことは本当に良かったのだろうか」
  • 「家を出て独立した姿を見せた方が、母の回復に繋がったのではないか」
  • 「心配させたまま逝かせてしまったなぁ」

等々尽きることはありませんね。

 

でもこの罪悪感は私の独りよがりなのかもしれないんですよ。

葬儀後に姉から聞いた話なのですが、以前母が「確かに〇〇(私)のことは心配だけど、いてくれるおかげでどれだけ心強く助かっているか」と姉に言っていたらしいのです。

そういう意味では、少しは母の助けになれていたのかもしれません。

 

ですが私は「~~をやってあげられた」「~~を見せることが出来た」ということを思いたかったんですよ。要は「自分がしてあげたかったことをやれた」という手応えです。

ですから母の気持ちと私の気持ちには「ずれ」があるのです。そしてそのずれを今の時点で埋めるのは正直難しいです。

 

買ってあげたかったものが沢山あった。報告したいことも沢山あった。安心感を与えてあげたかった。でもこれらはこれからいくら叶ったとしても、母にそれを伝えることはもう出来ません。

その点に対して私には後悔と無念さが残ります。

 

 

3、日々母を想う

最近手続き等が落ち着いてきて時間が出来たぶん、母のことを想う日が増えてきたように思います。

テレビで美味しそうなものを紹介していると、「あっ、これ母さんが見たら喜びそうだな」とか、連日のスポーツ大会放送に、「これ母さんが見たら喜びそうだなぁ」等々。

色々な情報が母と結びついていて、その度に母を想い、もういない寂しさを感じます。

 

介護や看護の大変さは私も少しはわかるつもりですが、それでも車椅子生活でもいい、ベッドの上から動けなくてもいい、それでももう一度話がしたいと思わずにはいられません。

それが叶うなら私はいくらでも頑張ります。

 

これまでの治療をしていた日々、緩和ケアに入ってからの日々。それらの時間は心身共にギリギリで、とてもしんどい毎日でした。実際に治療を受けていた母の大変さは私には計り知れませんが…

それでもその日々が懐かしい、今思えばとても幸せな日々でした。

 

母と会話するだけで問題は解決しなくとも、安心し日々を頑張ることが出来ました。

「また逆さまつ毛が目に入った、どうしよう」、「なんかお腹痛い、どこか病気だったらどうしよう」等、日々くだらない心配について母と話していましたが、それだけで私は楽になりました。病気の母親に何言っているんだと言われるかもしれませんが(笑)。

 

やはり私にとって母の存在はとてつなく大きかったです。他の何かでは代用出来る存在ではありません。

そしてそれは母がいなくなったことで、より強く感じます。

 

 

4、最後に

母が緩和病棟に入院したのは6月末頃でしたが、母は入院してからは完全な寝たきりだった為、この夏一度も外に出て夏の日差しや風を感じていません。本当に事態が急変してしまったのです。

せっかくケアマネージャーさんと相談して、手すりや車椅子の手配等、安心して自宅で過ごせる準備をしていたのに、それらを使う機会はありませんでした。

最近では杖や歩行器等を使って一人で歩いている人を見かけると、「いいなぁ」と思ってしまいます。

例え道具を使ってでも、一人で外出し歩けることが出来るのですから。

母は入院後は病院のベッドの上でしか生活出来ませんでした。あれだけ家で生活したいと言っていたのに、それを叶えてあげることは出来なかった。それが大きな心残りです。

私達家族も病院関係者も、結構頑張ったんですけどね。

 

母と話したり、口げんかしたり、買い物したり…

それが出来ていた時が、随分昔のような気がします。

また最近母がいない寂しさは日々大きくなっているのですが、それに対して母と過ごしていた時のリアルな感覚は、少しずつ減っている気がします。

 

それでも生きていかないといけない。でも前向きになることは疲れる。それでもやらなければならないことはなくならない。

ペースはまだまだ掴めていませんが、ぼちぼちとやっていくしかないのでしょうね。

母が亡くなった日

皆さんこんにちは。もち丸です。

 

母が亡くなってから約1ヶ月、葬儀が終わってから約2週間が経ちました。

今は虚無感を感じ、なかなか力が出ない日々を過ごしています。

今日は気持ちの整理の為、あるいは月日が経った時「あの時どう思っていたか」を振り返る為の意味でも、母が亡くなった日のことを振り返ります。

まずは亡くなった日の前日から振り返ることにしますね。

 

 

 

1、前日振り返り

母が亡くなる前日のことですが、明らかな異変がありました。

その日もいつも通り面会に行ったのですが、看護師さんから「今朝から水分と食事を摂れていないんです」と言われたのです。

それを聞いた時は「えっ?」としか思えず、「少しでも食べられないのか?」と思ったのですが、看護さん曰く、「今食事や水分を摂っても、却って体に負担になる可能性がある」とのことでした。

 

そこで「点滴はしないんですか?」と聞いても、それも体が処理出来なければ、却って体の負担になりかねないとのことでした。

こうなると私達には何もすることが出来ません。母に呼び掛けたり手足を触ったりしましたが、反応は乏しい。

私は病室を後にして、翌日事態が改善してくれることを祈るしか出来ませんでした。

 

 

2、病院からの緊急連絡

そして翌日の朝、7時頃でしょうか。病院の看護師さんから連絡があり、「状態がよろしくないので、今すぐに来てください」とのことでした。

もうこの時点で嫌な予感しかしません。急いで出勤途中の姉に連絡し、家族全員で母の元にかけつけました。

この一日のことは思い出したくないですが、きっとこの先忘れることはないでしょう。

 

病室に着くと昨日から栄養も水分も摂らず、横になっている母がいます。苦しいのか息も荒いです。

会話で意思疎通を図ることは出来ませんが、必死に声をかけたり、体に触れたりしました。途中主治医の先生も来てくれたことで少し安心しましたが、だからといって何かが出来るわけではありません。緩和病棟では積極的な治療はしないのです。というか出来る選択肢がもうない。

 

マジでキツイですよ。本当にただ見ているだけなんです。事態が良くなるとはとても思えませんでした。

ただそんな苦しい中でも幸いだったのが、私達がとても頼りにしている看護師さんが担当だったことです。

どの看護師さんにも本当にお世話になっていますが、相性のいい看護師さんってやっぱりいますよね。幸いこの日は夜勤も日勤も、私達がよく話す看護師さんが担当でした。

その為辛く苦しい一日でしたが、ある意味で非常に過ごしやすい時間だったように思います。

 

 

3、その時が来てしまった

とは言え本当に出来ることはありません。家族としてはそばにいることしか出来ませんし、医師・看護師の立場からも、何も出来ることはありません。

ただ一つ印象に残っていることがあるのですが、看護師さんが私達が持ってきたお茶を綿に染み込ませ、母の口元を「ポンポン」と湿らせてくれたのです。

私はそれを見て「これで喉の渇きが少し楽になったかな」と思い、その心遣いに感謝しました。

 

そして午後、母の呼吸が明らかに変わり、少しずつ脈が減ってきました。

あの時は辛かった。もはやこの流れを止めようがないのです。あれだけ奇跡を祈ってきたのに、やっぱり駄目だった。

よく人が亡くなる時の様子に関して、「眠るような最後だった」という表現がありますが、私の母については少し違うような気がします。

最後まで頑張って生き抜いたという印象です。あの時のことは正直思い出したくはありません。ですが忘れることは出来そうにありません。それ程インパクトのある様子でした。

最後まで命を尽くし、生き抜いた母に感謝と敬意を表します。

本当にありがとう。お疲れ様でした。

 

 

4、悲しむ暇すらない

母の病気が分かったのが約5年前、治療が終了し緩和ケアに入ったのが約1年半程前、そして今の病院に移ったのが約1年程前のことです。

私は最後まで「うちの母に関しては奇跡が起きるかもしれない」という気持ちを、ずっと持っていました。最後まで覚悟を決めきることは出来ませんでした。

 

そして母が亡くなった後は、悲しみに浸っている暇もありませんでした。退院手続きや死後の処置、葬儀屋への連絡等、休む暇がないんですよ。

亡くなるとすぐに病室を出ないといけない為、なんだか居場所がなくなったような、追い出されるような気持ちも感じましたね。

ただ非日常の出来事があった為、頭が非常に興奮しているんです。その為心身がキツイ中でも、動けてしまうんですよね。

ただ本来しんどいはずの心身を無理やり動かしている感じなので、「後で反動が来るんだろうな」と、ある種の冷静さを感じていました。

 

 

5、葬儀社選び

母が亡くなった後、特に疲れたのが葬儀社選びでした。

亡くなった後、看護師さんがお風呂で母の体をきれいにしてくれ、死後の処置、お化粧もしてくれました。

とは言え時間経過によって体が傷んでしまう為、早急に母の体を預ける場所を見つけなければなりません。

とは言え私達は「ここにお願いしよう」と決めている葬儀屋はありませんでした。母が「ここは嫌だ」と言っていた葬儀社が数件ある程度でした。

 

なるべく早く葬儀社を見つけなければなりませんが、姉は母に付き添っていますし、父も業者と連絡をとれる状態ではなさそうです。「自分がやるしかない」と思いました。

 

私はその時思ったのが、「絶対に悪徳葬儀屋にはひっかかりたくない」という思いです。

もう少し時間があれば葬儀社の評判や金額、プランを調べたいところですが、時間的余裕も精神的余裕もなく、今から各葬儀社を精査することは出来そうもありませんでした。

その為病院に置いてあった資料を参考に、ざっくりとしたプランや場所、そして「母だったらここは嫌だろうな」という感覚を頼りに、ある葬儀社に決めました。

結果としてそこに依頼して本当に良かったのですが、家族が亡くなった状態で急いで葬儀社を決めるのは、結構きつかったです。

そして母が亡くなってから2時間半程でしょうか。葬儀社の方が来て、病院を出ることになりました。

 

 

6、病院との別れ

この病院では緩和の外来で8ヶ月程、緩和病棟では1ヶ月半程お世話になりました。

それが短いのか長いのかはわかりませんが、本当に濃い時間でした。辛いけど「この病院でよかった」と思いました。それだけに母とこの病院を出るのを、とても寂しく思いました。

 

そして母と一緒に病院を出る時の様子、雰囲気は独特でした。

今まで通ったことのない通路を通ったのですが、その途中で明らかに「亡くなった人が通る道だ」という道を通ったのです。とても厳かで改めて母が亡くなったことを実感せざるをえませんでした。

その時はお世話になった看護師や主治医が皆さん付き添ってくれ、悲しさと有難さを同時に感じました。

 

 

7、最後に

今回はこれで一区切りにしようと思います。

この後は葬儀社との打ち合わせや、各種手続き等が忙しく、更には8月末の資格試験に向けての追い込みがあり、ゆっくりする暇はありませんでした。この反動が今来ている感じがします。

 

今は「辛さ・苦しさ」よりも、「虚無感・不安感」の方が大きいです。

しかもこれには終わりが無い、本当にキツイのはこれからなのかもしれません。

 

季節の移り変わりで気温差も大きくなっているので、どうか皆様お体ご自愛くださいませ。

最後まで頑張って生き抜いた母

皆さんこんにちは。もち丸です。

 

母が2023年8月初め、天へと旅立ちました。

穏やかな最後だったとは言えないかもしれませんが、最後まで頑張って生き抜きました。

家族全員で最後に立ち会えたことは、せめてもの救いです。

 

初めて病気が見つかったのは約5年前。

それから約4年程治療を行い、去年の秋頃に緩和ケアに入りました。

 

一般的な統計から言えば、母はかなり長生きしてくれたのだと思います。

それでもやっぱり奇跡が起きて欲しかった、治って欲しかったです。

でももう痛みを感じることはないのでしょうか。母が痛みを訴えても、何もしてあげられないことも苦しかったですから。

 

母に病気が見つかってから心が休まる日はありませんでしたが、今年の6月、7月は本当に激動の時期でした。

特に緩和病棟に入ってからは、あまり意思疎通も出来ず、何も出来ない・してあげられない状況に、無力感を感じる日々でした。

 

母が亡くなったこと自体がしんどいのは当たり前なのですが、今は苦しいというよりも「これからはもうずっと母がいないんだ」という現実に直面し、言いようもない不安感や虚無感を感じています。

旅行に行けなくても、車椅子生活でも、一緒に生きてくれるだけで嬉しいのに。

 

母は本当に頑張りました。これ以上ない程に頑張りました。

辛い治療を受け続け、何度も何度も期待を裏切られ、絶望を味わった後に何とか希望を集めて前を向いても、またそれを打ち砕かれてを繰り返してきました。

 

母がいなくなっても自分は生きていかなければならない。自分がこんなに苦しくとも、社会・世界は何もないように動いている。

それは当たり前で残酷な現実のように思います。それでも生きていかなければ。

いつか自分が母に会う時、ちゃんと生きたって言いたいなと思います。

 

自分の気持ちは今後、自分に無理のないペースで書き綴っていくつもりです。

またこのような自分の気持ちを書ける場所があることを、今はありがたく思っています。

 

これまで自分を気にかけてくれた方々に、心より感謝申し上げます。