家族ががんになっても希望は消えない。

母が肺がんステージ4になってからの記録です。希望は常にあると信じて日々を過ごしています。

残る悔い【母のコロナ感染】

皆さんこんにちは。もち丸です。

2024年になりましたね。私は喪中ということで新年のあいさつは控えますが。今年もよろしくお願い致します。

 

今回の年末年始は母がいなくなってから初めての年末年始でした。少しはゆっくりすることが出来ましたが、やはり寂しいですね。母がいないことが当たり前となり、改めて母を喪ったことを思い知らされました。

 

今回は母が緩和病棟入院中にコロナ感染したことを纏めました。本来なら昨年のうちに掲載しようと思ったのですが、なかなか出来ずにいました。

新年最初から明るい話題ではありませんが、ここで自分の気持ちを整理していこうと思います。

 

 

 

1、母がコロナになった!

2023年の7月始めに病院から母がコロナに感染したという連絡がありました。職員から陽性者が出たことで入院患者に検査をしたところ、発覚したとのことでした。

私は連絡を受けた時、「コロナ!?マジかよ。あんなに気を付けていたのに」と不安のどん底に落ちました。

 

私達家族は感染対策を徹底していた方だと思います。特に私はコロナが流行り始めてから一度も友人と会わない、外食もしない等、出来る限りのリスク軽減に注力してきました。

とはいえコロナ感染はいつ誰がかかってもおかしくないという状態でもありました。

5類から2類に変わったと言っても感染リスクが減ったわけではありませんし、むしろ人々の意識や行動が変わったことで、感染リスクは上がったと危機感を持っていました。

 

念の為家族全員で検査をしましたが、皆陰性でした。もちろん検査の精度やタイミング等による見落としの可能性もありますが、家族全員が偽陰性だったという可能性はかなり低い気もします。

とはいえ私達は犯人捜しをするつもりはありませんでした。どのルートから感染が発生したのかはわかりませんし、母に関わってくれた病院関係者の皆様には心から感謝しています。

 

そして即座に面会中止、隔離が始まり、私は生きた心地がしませんでした。元々弱っている母にとって、コロナ感染は命に関わる可能性があるとのことでした。

とは言え私達に出来ることは何もなく、隔離期間が終えるまで無事乗り切ってくれるのを祈ることしか出来ませんでした。

 

 

2、母がコロナにかかるということ

母は肺がん、ステロイド服用、間質性肺炎抗がん剤治療の後遺症、血栓症、高齢等々、コロナ重症化リスクがこれでもかというくらい高い状態でした。その為母にとってコロナ感染は命に関わる可能性があり、だからこそ私は感染対策を徹底していたのです。

 

母の隔離期間中はこまめに病院と連絡を取り合っていましたが、幸い重い症状はなく、このままであれば面会を1週間後から10日後に再開出来るとのことでした。そして私達は悩みながらも、面会再開を10日後にしました。

 

 

3、父のことも大切だからこそ悩んだ

ここで10日後にしたのは、父のコロナ感染を心配した為です。本心ではすぐにでも会いに行きたかったです。

 

緩和病棟に入っている母にとっては10日どころか、1日1日がとても貴重です。コロナ抜きにしてもいつ状態が急変してもおかしくない。そして隔離期間中に急変し、会えないまま母が亡くなってしまう可能性もありました。

ですが同居している父も重度の呼吸器疾患を持っている為、そのことを考慮しての苦渋の決断でした。

その部分で1日でも早く母と会いたいという姉とぶつかりました。ですが私にとっては父も母も両方大切です。出来ることならすぐにも母に会いに行きたいのです。でも父のことを考えるとどうしても慎重にならざるを得ませんでした。

母に加え父に何かあったらと思うと、怖くて怖くて仕方ありませんでした。

 

 

4、苦しい中での救い

母は入院時には脳出血脳梗塞で自分一人では動けない状態でした。

同じ隔離期間でも自分でメールや電話等が出来る状態であればまた違ったのでしょうが、看護師の出入りも制限され家族も会いに行けない10日間は、母にとってどれだけ苦しい、心細い時間だったのでしょう。その時の母の心境を想像するのも怖いです。胸が締め付けられそうになります。

 

ただそんな苦しい中でも、看護師さんがとても親身になってくれたことは救いでした。

特に印象に残っているエピソードがあるのですが、家族で入院時必要なものを買いに行った時、なんと母から着信があったのです。

母はその時一人で携帯を使うことが出来ない状態でしたから、私はとても驚きでした。

「何かあったのか?でもそれなら病院の番号から来るはずだよな」と思いながら、恐る恐る電話に出たのですが、なんと看護師さんが携帯を母の耳元にあてて電話してくれたのです。

 

私はその気遣いに涙が出ました。看護師さんも母との接触に注意しなければならないはずなのに、その行動をとってくれたのです。看護師としての仕事の範囲を超えたその心遣いにどれだけ私達が救われたことか。

もちろんスムーズには話せず途切れ途切れの会話ではありましたが、本当に嬉しかった。

そして隔離期間が解ける10日が、無事過ぎてくれるのを祈りました。

 

 

5、会える喜び

そして長かった隔離期間が明け、私達は母に会いに行きました。

 

今回病棟で何人が感染したのかはわかりませんが、緩和病棟にいる方は全員重症化リスクが高い人達です。その為コロナ発生前と比べて院内の動線が大きく変わっていて、母がコロナに罹ったという事実を突きつけられた気がしました。よく踏ん張ってくれました。

 

そして病室に入ってすぐに「母さん!長かったね」と声を掛けたら、「長かったよ~」という言葉が返ってきました。脳出血の後遺症でスムーズに会話することが難しかった母が、はっきりとした言葉でそう言ったのです。

私はその言葉を聞いてたまらなくなりました。「どれだけ心細かったのだろう。一人にさせてしまってごめん。」と思いました。

覚悟は出来ずとも母が急変する可能性は常に頭にありましたから、本当に嬉しかった。でも今思えばその会えなかった10日間は、あまりにも大事な時間の喪失でしたね。

 

普通人にとっては10日なんて大したことないのでしょうが、緩和ケアに入っている人にとっての10日はとてつもなく貴重な時間です。母のいた病院の緩和病棟での面会時間は1日30分でしたから、30分×10日=300分。つまりは5時間程の時間です。でもこの5時間が貴重なのです。

 

また軽症だったとは言え、コロナ感染は母の体力を大きく削ったように思いました。

健康な人ならば多くの人が徐々に回復していきますが、母の体力は何もなくても減っていく一方なのです。昨日よりも今日の方が体力が落ちている状況なのです。その為あのタイミングでのコロナ感染はかなり辛かったですね。

実際母が直接的には何が原因で亡くなったのかはわかりません。言い方は悪いですが、母の死因は肺がんと転移性脳腫瘍になると、緩和病棟に入った時点で決まっていたのです。

 

 

6、最後に

今回のことは思い出すのが辛い部分もありますが、とにかく外に出してしまいたいという気持ちもありました。

 

コロナについては人によって捉え方が大きく異なると思いますが、その点について他の人と論じるつもりはありません。そもそも何が正しいのかはほとんどの人が分からないものだと思います。

結局は誰かの提示した情報から、自分なりに整理した考えを作るしかありません。もはやバイアスのかかってない意見というのは無いでしょう。でもそれも仕方のないことだとも思います。

 

私が改めて思ったことは、母が最期まで頑張って生き抜いたということです。

まだまだ悲しみ・虚無感は大きいですが、母からもらったもの、託されたものが私にはたくさんあります。それらは私にとってとても大切なものです。

改めて母に心から感謝をします。ありがとうございました。