家族ががんになっても希望は消えない。

母が肺がんステージ4になってからの記録です。希望は常にあると信じて日々を過ごしています。

母が亡くなった日

皆さんこんにちは。もち丸です。

 

母が亡くなってから約1ヶ月、葬儀が終わってから約2週間が経ちました。

今は虚無感を感じ、なかなか力が出ない日々を過ごしています。

今日は気持ちの整理の為、あるいは月日が経った時「あの時どう思っていたか」を振り返る為の意味でも、母が亡くなった日のことを振り返ります。

まずは亡くなった日の前日から振り返ることにしますね。

 

 

 

1、前日振り返り

母が亡くなる前日のことですが、明らかな異変がありました。

その日もいつも通り面会に行ったのですが、看護師さんから「今朝から水分と食事を摂れていないんです」と言われたのです。

それを聞いた時は「えっ?」としか思えず、「少しでも食べられないのか?」と思ったのですが、看護さん曰く、「今食事や水分を摂っても、却って体に負担になる可能性がある」とのことでした。

 

そこで「点滴はしないんですか?」と聞いても、それも体が処理出来なければ、却って体の負担になりかねないとのことでした。

こうなると私達には何もすることが出来ません。母に呼び掛けたり手足を触ったりしましたが、反応は乏しい。

私は病室を後にして、翌日事態が改善してくれることを祈るしか出来ませんでした。

 

 

2、病院からの緊急連絡

そして翌日の朝、7時頃でしょうか。病院の看護師さんから連絡があり、「状態がよろしくないので、今すぐに来てください」とのことでした。

もうこの時点で嫌な予感しかしません。急いで出勤途中の姉に連絡し、家族全員で母の元にかけつけました。

この一日のことは思い出したくないですが、きっとこの先忘れることはないでしょう。

 

病室に着くと昨日から栄養も水分も摂らず、横になっている母がいます。苦しいのか息も荒いです。

会話で意思疎通を図ることは出来ませんが、必死に声をかけたり、体に触れたりしました。途中主治医の先生も来てくれたことで少し安心しましたが、だからといって何かが出来るわけではありません。緩和病棟では積極的な治療はしないのです。というか出来る選択肢がもうない。

 

マジでキツイですよ。本当にただ見ているだけなんです。事態が良くなるとはとても思えませんでした。

ただそんな苦しい中でも幸いだったのが、私達がとても頼りにしている看護師さんが担当だったことです。

どの看護師さんにも本当にお世話になっていますが、相性のいい看護師さんってやっぱりいますよね。幸いこの日は夜勤も日勤も、私達がよく話す看護師さんが担当でした。

その為辛く苦しい一日でしたが、ある意味で非常に過ごしやすい時間だったように思います。

 

 

3、その時が来てしまった

とは言え本当に出来ることはありません。家族としてはそばにいることしか出来ませんし、医師・看護師の立場からも、何も出来ることはありません。

ただ一つ印象に残っていることがあるのですが、看護師さんが私達が持ってきたお茶を綿に染み込ませ、母の口元を「ポンポン」と湿らせてくれたのです。

私はそれを見て「これで喉の渇きが少し楽になったかな」と思い、その心遣いに感謝しました。

 

そして午後、母の呼吸が明らかに変わり、少しずつ脈が減ってきました。

あの時は辛かった。もはやこの流れを止めようがないのです。あれだけ奇跡を祈ってきたのに、やっぱり駄目だった。

よく人が亡くなる時の様子に関して、「眠るような最後だった」という表現がありますが、私の母については少し違うような気がします。

最後まで頑張って生き抜いたという印象です。あの時のことは正直思い出したくはありません。ですが忘れることは出来そうにありません。それ程インパクトのある様子でした。

最後まで命を尽くし、生き抜いた母に感謝と敬意を表します。

本当にありがとう。お疲れ様でした。

 

 

4、悲しむ暇すらない

母の病気が分かったのが約5年前、治療が終了し緩和ケアに入ったのが約1年半程前、そして今の病院に移ったのが約1年程前のことです。

私は最後まで「うちの母に関しては奇跡が起きるかもしれない」という気持ちを、ずっと持っていました。最後まで覚悟を決めきることは出来ませんでした。

 

そして母が亡くなった後は、悲しみに浸っている暇もありませんでした。退院手続きや死後の処置、葬儀屋への連絡等、休む暇がないんですよ。

亡くなるとすぐに病室を出ないといけない為、なんだか居場所がなくなったような、追い出されるような気持ちも感じましたね。

ただ非日常の出来事があった為、頭が非常に興奮しているんです。その為心身がキツイ中でも、動けてしまうんですよね。

ただ本来しんどいはずの心身を無理やり動かしている感じなので、「後で反動が来るんだろうな」と、ある種の冷静さを感じていました。

 

 

5、葬儀社選び

母が亡くなった後、特に疲れたのが葬儀社選びでした。

亡くなった後、看護師さんがお風呂で母の体をきれいにしてくれ、死後の処置、お化粧もしてくれました。

とは言え時間経過によって体が傷んでしまう為、早急に母の体を預ける場所を見つけなければなりません。

とは言え私達は「ここにお願いしよう」と決めている葬儀屋はありませんでした。母が「ここは嫌だ」と言っていた葬儀社が数件ある程度でした。

 

なるべく早く葬儀社を見つけなければなりませんが、姉は母に付き添っていますし、父も業者と連絡をとれる状態ではなさそうです。「自分がやるしかない」と思いました。

 

私はその時思ったのが、「絶対に悪徳葬儀屋にはひっかかりたくない」という思いです。

もう少し時間があれば葬儀社の評判や金額、プランを調べたいところですが、時間的余裕も精神的余裕もなく、今から各葬儀社を精査することは出来そうもありませんでした。

その為病院に置いてあった資料を参考に、ざっくりとしたプランや場所、そして「母だったらここは嫌だろうな」という感覚を頼りに、ある葬儀社に決めました。

結果としてそこに依頼して本当に良かったのですが、家族が亡くなった状態で急いで葬儀社を決めるのは、結構きつかったです。

そして母が亡くなってから2時間半程でしょうか。葬儀社の方が来て、病院を出ることになりました。

 

 

6、病院との別れ

この病院では緩和の外来で8ヶ月程、緩和病棟では1ヶ月半程お世話になりました。

それが短いのか長いのかはわかりませんが、本当に濃い時間でした。辛いけど「この病院でよかった」と思いました。それだけに母とこの病院を出るのを、とても寂しく思いました。

 

そして母と一緒に病院を出る時の様子、雰囲気は独特でした。

今まで通ったことのない通路を通ったのですが、その途中で明らかに「亡くなった人が通る道だ」という道を通ったのです。とても厳かで改めて母が亡くなったことを実感せざるをえませんでした。

その時はお世話になった看護師や主治医が皆さん付き添ってくれ、悲しさと有難さを同時に感じました。

 

 

7、最後に

今回はこれで一区切りにしようと思います。

この後は葬儀社との打ち合わせや、各種手続き等が忙しく、更には8月末の資格試験に向けての追い込みがあり、ゆっくりする暇はありませんでした。この反動が今来ている感じがします。

 

今は「辛さ・苦しさ」よりも、「虚無感・不安感」の方が大きいです。

しかもこれには終わりが無い、本当にキツイのはこれからなのかもしれません。

 

季節の移り変わりで気温差も大きくなっているので、どうか皆様お体ご自愛くださいませ。