家族ががんになっても希望は消えない。

母が肺がんステージ4になってからの記録です。希望は常にあると信じて日々を過ごしています。

2022年振り返り 「皆さんお疲れ様でした」

こんにちは、もち丸です。

もうすっかり年末ですね。12月は人によっては忙しい時期であり、また人によってはしみじみとした時期でもありますね。

私個人にとっても今年は本当に大変な年でした。

今回今年最後の記事になりますので、今年を少し振り返ってみようと思います。

 

 

 

1、母の治療が終わってしまった

今年は年初めからとても慌ただしかったですね。2021年初めに母が間質性肺炎になってしまい、それをきっかけとして一気に治療計画が狂ってしまいました。当初予定していた抗がん剤治療も行えなくなり、参加予定だった治験も中止。本当に泣きたくなりました。「なんでこんなことばかり起こるんだよ」と。

そして治療の最優先事項が「肺炎を悪化させない」こととなり、治療の選択肢も大幅に狭まりました。

そして2021年終わりに最後の抗がん剤治療を行い、今年2022年始めに治療が終了してしまいました。

 

もし間質性肺炎にさえならなければ、別の抗がん剤治療の選択肢もありましたし、リンパ節部分の放射線治療も行えたはずなのです。本当に辛い。

 

 

2、「あの時ああしていれば」の後悔

私はこの治療終了に関して、今でも後悔していることがあります。

2021年の年末年始、母は37.5度くらいの発熱と解熱を繰り返していました。ただ主治医に伝えても「腫瘍熱でしょう、問題なく治療出来ますよ」とのことでした。

ですが私はその時一旦抗がん剤治療を様子見し、しかるべき処置を行なっていれば状況は違っていたのではないかと思っています。

もちろん私は素人で本当のことはわからないのですが、「もっと強く先生に言っていればこうはならなかったかもしれない」と思わずにはいられません。

 

そして治療終了が決まった日は、私が精神腫瘍科を初めて受けた日でもありました。

私の精神腫瘍科初診日は、母の診察と重なっていたのですが、その時初めて母の診察に同席しませんでした。当時は毎週同じような感じで治療が進んでいましたし、母も「いつもと同じだろうからそっちに行っておいで」と言ってくれたからです。

そして診察終了後少しスッキリした気持ちで母のもとに向かったのですが、いつもと違い薬剤師に付き添われた母から、「治療が終了しちゃったよ」という話を聞きました。

その時の絶望感は今でもはっきりと覚えています。「なんで治る人がいるのに、俺の母さんが治療終わりなんだよ」と病院内で泣きました。

 

そんな私に母は「私が死んだ時はもう苦しまなくていいってことだから、泣かなくていいよ」と言いました。

こんな状況なのに母は私のことを心配しているのです。まぁ心配かけている息子だからと言われればそれまでなのですが、つくづく母の凄さとありがたみを感じました。

「俺にはこの母さんしかいない。長生きして欲しい」と心の底から思いました。

 

 

3、治療から緩和へ

治療が終了した後は同じ病院の緩和ケアに通い始めました。

もはや治療が出来ない以上、薬による痛みのコントロールしかありません。この苦しさ・絶望感は当事者にしかわからないと思います。

そして実際に母が感じる痛みも心情も、本当の意味では私にはわかりません。家族でも母の苦痛を軽くしてあげることは、本当の意味では出来ないのです。つくづく自分の無力さとがんへの憎さを感じます。

 

 

4、思い出作り

私は母が病気になってから、何か行事やイベントがあるたびに「これが最後かもしれない」と思ってしまいます。そして言いようがない寂しさや怖さを感じます。母もそれを感じているのでしょう。これまで以上に行く先々で家族写真を撮りたがります。

いつかこの写真が思い出となって「あの時はああだったな」と思い出すのかな思うと、もうね、たまんないですよ。正直私は立ち直れる自信がありません。この歳になっても情けないです。

 

でも母にとって貴重な時間は「私達家族との時間」のようです。その為息苦しさや歩きにくさがある母ですが、コロナには最大限注意しつつ、色々なところに出掛けました。

 

 

5、本当にどうにもならないのか

今母は治療をしていません。普通に考えればそれは「少しずつ病気が進行する」ということです。もちろん私はいまだに奇跡を捨てきれず、神様にお祈りしたり、新しい治療法が出来ないかをいつも気にかけています。

 

でも日々痛みや苦痛を訴える母を間近で見るのは、とても辛いです。いくら言葉をかけても「痛みという事実そこにあるもの」を直接軽くしてあげることは出来ません。

私は心配性なので、少し体に痛みや不調があるだけで心配になり、日常が乱れてしまうのに、母は常に痛みや不調を抱えているのです。そのストレスは私にははかり知れません。せいぜい母の頼みを聞いたり、出来る範囲でサポートするだけです。むしろ自分の悩みを母に聞いてもらう事の方が多い気すらします。

私は年齢的には結婚して子供がいてもおかしくない年齢です。なのに私は子供として未だに母に心配ばかりかけている。つくづく自分が情けなくなります。

 

 

6、自宅近くの病院に転院

母は今年の夏の終わり位までは治療を受けていた病院の緩和ケアを受診していましたが、今年の秋に自宅近くの病院に転院しました。

転院によって通院が楽になったというのは間違いなくありますが、なんだか見捨てられたような寂しさがあります。

しかも転院先の病院はコロナの影響で診療体系が変化し、緩和ケアにこれまでと同じような時間を割くことが難しくなっています。つくづくコロナが憎いです。早く滅べ!

ただ不幸中の幸いと言うべきか、転院先の先生は限られた時間の中でも親身に話を聞いてくれるので、「最悪ではないのかな」という気持ちです。

 

ただこれから先痛み止めの量がどんどん増えていくのかと考えると、怖くて仕方ありません。

私は最近神社や自宅の神棚で、「どうか母が苦痛が少なく、長生き出来ますように。そして出来ればがんを治してください」と祈っています。

 

 

7、今出来ることをやろう

ただ私は家族の看護というやるべきこと、ある意味での「大義名分」のようなものやコロナを盾にして、自分自身の行動が満足にとれなかったという反省点も大いに感じています。

「動かなければ!」「間に合わなくなる!」「でも動けない!」...

こんな風にアクセルとブレーキを壊れる程踏んでいた年のようにも思います。そして「このままじゃ一生後悔と不安にとりつかれたまま、人生を過ごすことになってしまう」という危機感が常にありました。

 

そして「今この状況の自分にも出来ることはないだろうか」と思った結果、ある資格の勉強をすることにしたのです。

私は劣等感が人一倍強い為、そこから来る「成長への飢え」も人一倍強いと思っています。そして目標が出来、やるべきことを持てた時の喜びを、私は誰よりも知っています。

決して楽にとれる資格ではないですし、この勉強が無駄になるかもしれないという思いもあります。それでも母も関係ない、自分だけの目標、やるべきことがあるというのは、ある意味とても大事で幸せなことだとも思います。

そして「絶対このままじゃ終わらないぜ。今に見てろよ!」と、毎日少しずつ勉強をしています。

 

8、最後に

さてつらつらと今年を振り返ってみましたが、なかなか悲壮感に溢れていますね(笑)。出来れば綺麗な形で今年最後の記事を纏めたかったのですが...

でも今回の年末年始も家族全員で迎えられそうです。それは本当にありがたいです。

2022年の正月を家族全員で迎えた時も、嬉しい気持ちと共に「次の正月は厳しいかな」という思いがありました。でも迎えられました。それは本当に嬉しいです。

願わくば痛みや苦痛のコントロールが上手くいき、来年も母が穏やかに生活出来るようになって欲しい、そして願わくば奇跡が起きて欲しいと思います。

 

ただもちろん私自身、嫉妬や後悔、劣等感に塗りつぶされず、自分の人生をしっかりと生きていきたいと思います。私がしっかりと楽しく生きている姿を見せることが、母に対する親孝行にもなると思いますからね。

とまぁ言葉にするのは簡単ですが、なかなか実行は難しい。まずは一つずつですね。

 

さて最後の記事も長くなってしまいましたが、皆さん今年もお疲れ様でした。

ご自身が闘病中の方、病気のご家族をサポートしている方、改めて本当にお疲れ様でした。

2023年が私と皆様にとって、穏やかで良い年になりますように。