家族ががんになっても希望は消えない。

母が肺がんステージ4になってからの記録です。希望は常にあると信じて日々を過ごしています。

逃げたっていいじゃないか

こんにちは。もち丸です。

 

最近は病院に行く回数が減り、その意味では少し楽になるかと思ったのですが、実際には全くそんなことはありません。むしろ家にいる時間が増え、母の近くにいる分、苦悩が増えたような気がします。

もう母を「今は大変だけど、治療が終わったら体調良くなっているといいね」と励ますことは出来ません。これから先どうなるんだろうと考えると、怖くて仕方ありません。

 

今日はそんな不安な毎日を過ごす中、「逃げることは悪いことなのか」「そもそもこれは逃げていると言えるのか」というテーマについて、思ったことを書きたいと思います。

 

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1、がんよ、大人しくしろ!

最近精神的にかなりキツイです。色々なことが一向に落ち着く気配がなく、疲れました。

母は現在緩和ケアを受けていますが、幸い今のところはなんとか普通の生活がおくれています。

 

母は今年の1月末に緩和処置として、脇下リンパ節部分に放射線治療を行いました。しばらくは小康状態が続いていたのですが、最近また大きくなってきたらしいのです。

当然がん自体が根治していない状態で治療が終了したわけですから、再び大きくなる可能性があるのは頭では分かっていました。

それでもそのことを母から聞いた時、「もうかよ」と思いました。正直もうしばらくは、一安心した心理状態でいたかった。

「どうなるんだろう。もう痛み止めで乗り切るしかないのか」と絶望の気分です。

 

つくづくがんが憎いです。もし出来るなら「お前(がんのこと)は母さんの体に居ていいから、これ以上領土を広げるな」と、停戦交渉を結びたいです。

 

しかも例え母の病気がなくとも、私は私自身のことで精一杯です。さらにコロナは生活のあらゆる部分に絡みついていて、本当に邪魔です。もうどうすりゃいいんだろ。

そして最近は母だけでなく、父のことも心配です。

 

 

2、父の善意、暴走中

今の父は私から見て、悲壮感漂うような献身を母にしているように見えます。

元々完璧主義的傾向のある父ですが、母のサポートに関しては、100%のサポートをしようとしているように見えます。正直母にとっても「重い」と思うこともあるような献身です。

 

ただ父は間違いなく優しく、頼りになる人です。でも察するのが苦手と言うか、デリカシーに少し欠ける人なんです(笑)。

 

父にとって家族は全てです。友人もほとんどおらず、家以外に場所を持とうと思ったこともほとんど無いそうです。それ故家族、今は母に意識の全てが向かってしまい、それ故善意の暴走状態とでもいうような時が多々あります。

 

私は過去体調を崩していた時期があり、家族に色々と心配をかけてきました。また私自身も善意から人にプレッシャーをかけたり、嫌な想いをさせてしまったことが数えきれない位あります。

その為善意が時に暴力のようになってしまう危険性や、逆効果になってしまう危険性を痛い程実感しています。

お互いに思いやっているはずなのに、互いに辛くなったり、嫌になってしまうこともありますよね。

 

 

3、身を守ることは逃げではない

そんな父ですから母に何かあった時、父まで共倒れするんじゃないかと心配してしまうのです。

父は最近日中休むことなく動き回っています。家の掃除、家庭菜園、母の薬の管理…

やることが多いというのもあるのでしょうが、恐らく動き回っていないと怖いのだと思います。理屈としてはワーカホリックに似ているかもしれません。立ち止まってしまうと様々な考えに追いつかれてしまう。だから追いつかれないよう走り続ける…

 

最初は無理にでも父を止めた方がいいんじゃないかと思ったのですが、最近父は父なりに、必死にバランスをとろうとしているんだと思うようになりました。

 

そして「これは果たして逃げなんだろうか」「仮に逃げだとしても、別にいいじゃないか」とも思い始めました。

 

私は母が病気であるという事実から、目を背けようとしているわけではありません。

でも目を背けないということは、24時間365日そのことを考え続けるということではないと思います。

何かしていて楽しいと思う。そしてその後罪悪感が出てくる。これは果たして悪いことなのだろうか。少しでも忘れて楽しめるということは、とても素晴らしく、大切なことなんじゃないかとも思います。

ハッキリ言って常に母のこと、これからのことを考え続けていたら、気がおかしくなりますよ。(既におかしくなってるかも)

 

 

4、動きたいけど動けない

とは言え今は気分転換が難しい状況なんですよね。特にコロナの影響が大きく、私は緊急事態宣言やまん延防止発出に関わらず、自粛を続けています。

我が家の場合母は肺がん、父は重度の喘息ということで、我が家のコロナリスクは相当高いと思っています。その為どうしても慎重にならざるを得ません。

 

ですが最近第7波の気配も出てきましたし、いつまでこの状況が続くかはわかりません。いい加減次の「波」で終わって欲しいと思いますが、それを待っているとどんどんと時間が経っていきます。そして母に後どれだけ時間があるかはわかりません。

動きたいのに動けない。そして時間もない。

こんな状況が続くと、心身がおかしくなりそうです。

 

 

5、正面から向き合っても解決出来ないことがある

ここでは詳細は述べませんが、私は18歳の時に神経症を発症し、長い期間その症状に苦しんだ経験があります。

そしてもし仮に今の自分が神経症を発症した17歳の時の状態なら、恐らく神経症を発症しないで乗り越えられると思います。

 

でも当時はただでさえ心身が劇的に変動する思春期、そして様々な要素が絡んでいて、当時の自分ではどうしようもなかったのです。今より未熟だったとはいえ、当時は当時の自分なりに何とか乗り越えようと奮闘したのです。

あの時は解決の仕方も、逃げ方もわかりませんでした。

 

ここで話の時間軸を今に戻しますが、そもそも今の私も父もこの状況から逃げてはいないと思います。とは言え逃げずに立ち向かったところで、今の事態を解決出来るわけではありません。

そんな張りつめた状況で、自分を叱咤激励して追い込むことは、あまりにも危険だと思います。そして自分に対して残酷な仕打ちだとも思います。

 

ここで今自分が「逃げているのか」、「向き合っているのか」をハッキリさせることに意味はないのかもしれません。

恐らく100%納得出来、後悔が無い介護・看護はないのかもしれません。今母に何かあったとしたら、私は罪悪感と自責感をとてつもなく大きく感じるでしょう。

 

 

6、逃げるなら前向きに逃げたい

そんな中私はふと思いました。「逃げてもいい、何か別の方向に逃げてみようか」と。

この方向に進まないといけないと思っている、「この方向」以外のことをやるのはどうだろう。

例えば何かしたい勉強、自分が必要としている助けを求める為に動く、興味のある本を読む…

 

私にとっては「やらなければならないことをやること」以外は、全て先送り、逃避のように感じてしまいます。

でもこれまでも脇道に逸れた中で色々な資格を取得出来ましたし、下手なりにブログで文章を書くことが出来るようになりました。今も少しずつ国家資格の勉強をしていますし、これまで縁のなかった人と繋がることも出来ました。

 

決して望んだ方向ではありませんし、まだまだ必要なものも得られていませんが、「逃げてはいけない」と強く思うあまりその場から動けないよりも、別の方向に逃げたことによって、今までのやり方では出会う事の無かった経験を得る可能性があります。

それはあるいは逃げなのかもしれませんが、ある意味視野を広げて別の道を探していると言えるかもしれません。

 

ただ一つの「やらなければならないこと」をやれてない限りは、自分は全く前に進めていない。

これまで自分はそう思っていました。でも自分を許し、視点をずらすことで、新しい道や可能性が生まれるかもしれない。そんなことを思いました。