家族ががんになっても希望は消えない。

母が肺がんステージ4になってからの記録です。希望は常にあると信じて日々を過ごしています。

がん患者交流サイト「5years」の紹介

皆様こんにちは。もち丸です。

 

最近は寒くはなってきたものの、気持ちのいい晴れの日が続いていますね。散歩やランニングがとても気持ちがいい日々です。

やはり私達も動物の一部ですから、太陽を浴びると気持ちがいいです。なるべく生き物のリズムを大事にした日々を過ごしたいものです。

 

さて今日は私が利用している、「5years」というサイトを紹介します。

5years.org

このサイトはがん患者及びその家族が利用出来る交流・支援サイトです。

私はこのサイトを利用して日々の不安を吐き出したり、他の人の体験談等を聞くことで、ガス抜きや気持ちの整理に役立てています。

今回サイトのご紹介をするとともに、ブログ右側(?)の「リンク」項目欄にもサイトURLを登録しましたので、興味のある方はどうぞご覧くださいませ。

 

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1、5yearsとは?

このサイトはNPO法人5yearsが運営しているサイトで、日本最大級のがん経験者コミュニティサイトです。

利用に関しては患者自身はもちろん、患者家族も利用することが出来ます。サイトの機能は多数ありますが、私は日々の生活や母の治療で感じた事を書き込んだり、他の登録者に体験談を聞くといったことをメインの利用としています。

 

人によってどのように使いたいかは様々だと思いますが、「あまり深くは人と交流せずに使いたい」という方も、日々の気持ちをポンッと吐き出す場所として使う事も出来ますよ。

 

 

2、5yearsとの出会い

私がこのサイトの存在を知ったのは、母の通院している病院に置いてあったパンフレットからでした。

ただ私は当初「こういうサイトって怪しくない?本当に大丈夫?」と思い、登録をためらっていたのです。(笑)

 

私は母が病気になってからは毎日がとても苦しく、とても一人では抱えきれないということはわかっていました。

ですが友人に相談しても経験の無い人には通じませんし、経験のある方でも「家族をがんで亡くした」という方の話は正直聞きたくありませんでした。

何故なら私の母は今生きているからです。そんなネガティブな情報は知りたくないと思いました。

 

他にも病院の相談センターや精神腫瘍科を利用したこともありますが、もっと日常的に気持ちを吐き出せる場所が欲しいと思い始めました。

ネットや本で前向きなエピソードを探そうと試みましたが、「もう限界だ、このままでは潰れてしまう。何かないのか。」というところまで追い詰められました。

その時頭に浮かんだのが、登録をためらっていた「5years」の存在でした。

 

 

3、サイト登録

そしてとにかく自分の気持ちを吐き出せる場所が欲しいとの思いから、私は5yearsに登録することにしました。

 

ちなみ私が5yearsの利用を考えた時に気になったのは、匿名性を持って利用出来るかという点でした。

私達家族は母の病気のことをごく少数の人にしか伝えていません。その為万が一にも周りの人に状況を知られるのは避けたいと考え、ある程度匿名性を持ってサイトを利用したいと考えたのです。

ですがその点は問題ありませんでした。

サイト利用時はニックネームを使用することが出来ますし、加えて書き込み内容に注意することで安心してサイトを利用出来ます。

※ちなみにサイト内でもニックネームを使っている人が多数です。

 

またこのサイトでは任意で病歴や状況を登録することも出来ます。

もちろんどこまで詳細に情報登録するかは個人の自由ですし、登録情報は後から更新することも出来るので、登録時に全てを登録する必要はありません。

 

 

4、どんなサイトなの?

さて先に少し触れましたが、このサイトには「現在治療中の方」「治療が終了した方」、そして「患者自身」とその「家族」が登録しています。

 

書き込む内容としては「治療が上手くいった」のようなポジティブなものもあれば、「今日こんな治療があって辛かった」、「苦しくて仕方ない」のような胸の内を吐き出すようなコメントも多いです。

私はどちらかというと後者の書き込みが多いですが...(笑)

 

サイトには色々な機能がありますが、私は辛いことや不安なことを書き込むことで、感情のガス抜きをすることが多いです。そしてそれらに対して登録メンバーから共感や応援等のリアクションを頂くこともあります。

ただ私は人のリアクションを意識しすぎてしまうと疲れてしまうので、最低限のマナーを守りながらマイペースでこのサイトを利用しています。

それでも家族や医師にも話しにくいような自分の気持ちに共感してくれる人がいると、少しホッとします。「あ~、俺の気持ちを理解してくれる人がいる」と。

 

このサイトを利用している方は、ほとんどが何らかの形でがんに関わったことのある方達です。皆辛さや痛みを経験した方達です。それ故決してきれいごとではない応援の形がこのサイトにはあると感じます。

 

またこのサイトでは日々の書き込みの他、自分が聞きたいことに関して質問することが出来、他の登録メンバーに体験談やアドバイスをもらうことも出来ます。

もちろん一人一人抱えているものや状況は違いますが、やはり実際に体験した方の話は非常に参考になります。例え解決には直接結びつかなくても、共感されることで少し救われることもあると思います。

 

 

5、私にとっての5yearsの意義

私にとって5yearsの一番の意義は、私と同じ家族をサポートする立場の方と気持ちを共有出来る点にあると思っています。

 

私は母が病気治療中という患者家族の立場です。その為母や実際に治療を受けている方の本当の気持ちは、残念ながら理解しきることは出来ません。

でも家族が病気になって辛い思いをしている方の気持ちは、痛い程理解出来るのです。「治って欲しいと願う気持ち」と「覚悟しなければという気持ち」。その二つの間で日々揺れ動き、それでも奇跡を信じて苦悩する日々。

・「家族に長生きして欲しい。でも苦しまないで欲しい。」

・「先のことを考えると怖くて仕方ない」

・「自分に出来ることは何もない」

・「自分がしっかりとしていれば他に選択肢があったのではないか」...

 

そのような苦しさは本当に我が事のようにわかるのです。そして同じように私の苦悩もここにはわかってくれる人がいる。例え直接やり取りはしなくとも、リアクションや書き込みを通じてそれらが少しわかります。

 

このサイトにいる日々必死に状況に向き合っている方は、私にとって同志のような存在です。

そのような場所が一つでもあることと、一つも無いことは精神的には全く違います。特にコロナの影響で直接患者会のようなものに参加するのが難しい現在、このようなサイトの存在を大変ありがたく感じます。

 

 

6、最後に

病気というのは患者自身はもちろん、サポートをする家族も正直大変です。(もちろん母や治療を受けている方を責めるつもりは一切ありませんよ!)

特にがんは「がん種」や進行度、治療内容や個人の状況によって、その人独自の大変さ、苦しさになると思います。

そしてネットや本にある膨大な情報に溺れ、落ち込み、心身共にギリギリまで追い込まれる方も多いと思います。

 

ただ私は100回励まされるよりも、1回でも「辛いよね」と共感してもらえた時の方が癒されることもあると思っています。

その為今何かしらの形で「がん」というものに関わっていて、「何か場所が欲しい」、「少しでも楽になれるような何かを探している」。そんな方は今回ご紹介した5yearsを利用してみてはいかがでしょうか。

 

皆様(もちろん自分も!)の心身に、平穏が訪れますように。

抗がん剤治療 「アリムタ」と「カルボプラチン」

皆様こんにちは。もち丸です。

 

前回の記事では分子標的薬「タグリッソ」による治療をまとめました。

今回はそのタグリッソ治療の次、「アリムタ」「カルボプラチン」による治療をまとめます。

母の病気のことは頻繁に人に相談出来るものではないので、このブログで少しでもガス抜きがしたいと思っています。

それではよろしくお願いします。

 

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1、「アリムタ」と「カルボプラチン」

今回の治療では「アリムタ」と「カルボプラチン」2種類の抗がん剤を点滴します。ここではそれぞれの薬の一般的知識の説明は省略します。

母の場合は4週に一度アリムタとカルボプラチンを点滴するというのを1サイクルとし、それを4クール続けました。そしてその後はアリムタのみを4週に一度点滴するというサイクルでした。

 

前回使用したタグリッソは飲み薬でしたが、今回は点滴治療という事で、治療の流れが大きく変わります。

ちなみに点適は入院ではなく通院でOKです。ただ最初の1回目は念の為入院してもいいとのことでしたが、母は入院したくないとのことだったので、最初から通院での治療となりました。

 

 

2、母に出た副作用

前回使用したタグリッソはがんに関わる特定の細胞を狙い撃ち出来る為、比較的副作用が少ないと言われていました。とは言え母は結構辛そうでしたけどね。

それに対して今回使用する抗がん剤は体全身の細胞、特に細胞分裂が活発な部分を叩きます。その為副作用の出方も、タグリッソとは違うものになりそうだと言われていました。

 

そして母には以下の副作用が出ました。

・吐き気、気持ち悪さ

・だるさ

口内炎、皮膚炎

他には特に注意が必要な副作用として、免疫力の要である白血球が下がってしまう「骨髄抑制」というのもありましたが、それについては別章で説明します。

ちなみに多少髪質が変わったものの、脱毛はほとんど無いようでした。

 

①吐き気、気持ち悪さ

吐き気の度合いに関しては個人差が大きいようですが、母の場合は点滴1~2週間後は、食べ物を少量でも食べると必ず気持ち悪くなるようでした。ただ食べること自体は出来ていたようなので、気持ち悪くなる前に食べてしまおうと、猛スピードで食事をしていました。(笑)

それと特に印象的なのは、少量の水でも気持ち悪くなるということでした。

 

そしてここで注意が一つ。がんを患っている方は血栓が出来やすくなってしまう傾向があり、それを防ぐ為には「体を動かすこと」と「水分をしっかりと摂ること」が大事なのだそうです。その為水分を摂りにくくなることは大きな問題なのです。ちなみに母は血栓が出来てしまい少々大変だったのですが、そのことに関しては別記事で述べたいと思います。

 

担当看護師に食欲が無い時の対処を聞くと、「辛い時はスポーツドリンクやウイダーインゼリー等でもいいですよ」とのことでした。

ただ母は食べ物の好き嫌いが激しく、上記二つを決して食べてくれません。なんとか食べてもらおうとしても、余計意固地になってしまいました。(泣笑)

ただ周りが心配してあれこれと忙しくしてしまうと、母は余計に居心地が悪くなってしまうような気もします。

母だって食べられるなら言われずとも食べるでしょうから。

ただ母は吐き気が強い時でも、冷やし中華そうめんなどの麺系はそこそこ食べられるようでした。

 

②だるさ

母の場合は点滴を打ってから2、3日後から現出し始め、その後2週間程続いているようでした。

ただ抗がん剤の回数を重ねていくと症状も酷くなっている印象があり、2週間後以降もだるさが続くようになっていきました。

 

口内炎、皮膚炎

これに関しては体のあちこちに湿疹が出ているようでした。その対処として保湿剤が処方されました。特に冬場は空気が乾燥している為、保湿が大事とのこと。

また口内炎もあちこちに出ているようでした。これに関してはうがい薬と塗り薬が処方されましたが、母は塗り薬を嫌がり結構さぼりがちでした。(泣)

ちなみにうがい薬が沁みる時は、緑茶でのうがいも効果的だそうです。

 

 

3、骨髄抑制

まず始めにお断りしておきます。この項目は副作用に関する中でもかなり重要な項目です。そして今から述べることは私の主観が多分に入っていることを、ご理解いただければ幸いです。

 

さて抗がん剤の副作用について、最も注意が必要なのは「骨髄抑制」だと医師に言われました。

骨髄とは白血球や赤血球を作る場所であり、抗がん剤はこの骨髄にもダメージを与えてしまいます。特に白血球が少なくなってしまうと免疫力が落ちてしまい、普段ならかからないような病気や感染症にもかかりやすい状態になってしまいます。

一例として普段はそこまで問題にならないような歯周病菌も、免疫力が落ちている状態だと悪さをする場合もあるそうで、治療前に口腔衛生を整えておくことが大事だそうです。

 

さて一般的に白血球が下がるのは、抗がん剤投与後1~2週間くらいの時期だそうで、この時期は「人込みには出かけない」「手洗い・うがいを徹底する」等、本人も家族も注意が必要な時期になります。

特に現在はコロナもあり、肺にダメージがある母にとっては命取りの可能性もあります。

その為私もコロナには相当敏感になっており、緊急事態宣言のあるなしに関わらず外出は極力控えました。趣味のスポーツや外食はもちろん、外出自体も最低限、休日は近所の散歩やランニングのみとしました。

かなりストレスがたまる日々ですが、「あの時外出しなければ母は感染しなかったかもしれない」と後悔するのが怖かったのです。

このあたりの心情は別記事でまとめたいと思っています。

 

骨髄抑制については自覚症状や見た目からの判断が難しい為、「見えないものに注意する」という難しさと苦労を知りました。ただ幸い母には骨髄抑制による大きなトラブルは起きませんでした。

 

 

4、治療の効果

肝心の治療効果についてですが、元々あった肺部分の腫瘍は半分以下の大きさになり、他の転移した部分もかなり小さくなりました。

 

やはり医師から完治は期待出来ないと言われていても、こうした結果には本当に救われる思いがします。

やはり治療を受けている人は「このままいってくれ!」と願いますよね。そしてこの治療が出来るだけ長く続いて欲しいとも。

とは言え安心しきれないのがステージⅣの辛いところです。期待と不安が入り混じり、楽観視出来ないのが本当に苦しいです。

 

ちなみこの治療中にも一度脳腫瘍の再発がありました。

しかも前回一度ガンマナイフ治療を行った部分の再発もあり、それは肺がんの勢いが強いことを意味しているようです。

そして最初の治療から数えて3回目のガンマナイフ治療を行いましたが、幸い全ての脳腫瘍に対処することが出来、あれから脳腫瘍の再発は起きていません。

さすが我が母!しぶとさが段違いだ!

 

 

5、またしても効果が…

さて順調だった治療ですが、治療開始から一年半程経った頃、母に発熱する日が出てきました。昼間は平熱なのですが夕方に熱が出て、夜には下がるというのを繰り返すようになったのです。

主治医に相談はしましたが、「38.5度以上出なければ大丈夫ですよ」とのこと。そして解熱鎮痛剤が処方されました。

 

それを聞いて私は「は~?そんなわけないだろ。こんなん心配しない方がおかしいわ」と思い、診察時に何度も確認しました。ところが血液検査にも異常は無く、肺炎も起きていないとのこと。

このような時はネットで調べても、恐くなるような情報しかありません。でも「母に何かが起きているのでは」と不安で仕方ありませんでした。

 

そしてそれから2か月程経った頃診察で、「抗がん剤の効果が落ちてきています。恐らくリンパ節部分の腫瘍が大きくなり、炎症が起きることによって熱が出ているのでしょう」とのことでした。

 

「ついに来てしまったか。このままいってくれると思っていたんだけどな」と、再び私達はどん底に落とされました。

そして次の治療については二つの選択肢が提示されました。

一つは予め計画されていた抗がん剤による治療。そしてもう一つは治験に参加することです。

今回の出来事は母の治療について一つの転換点になり、結論から言うと母はどちらの治療も受けることが出来なかったのですが、このことは別の記事でしっかりとまとめようと思います。

 

 

6、最後に

それにしても本音を言うとがん治療って本人はもちろん、家族も相当大変です。

特に完治が見込まれる中での治療は、苦しくとも可能性とゴールがあります。その為モチベーションを高く持つことが出来、それらが苦しい治療に耐える力になります。

ところが母の場合は治療のゴールが見えず、終わりの無いマラソンを走らされている気分です。

苦しいのにゴールが見えない。そりゃ力もモチベーションも落ちてきて当然です。

 

とは言え私は奇跡を信じます。人がどうなるかなんて誰にもわかりません。

それにデータというのは確かに科学的事実ではあるけども、そんなもん知るもんか。知ったこっちゃないと強がります。

やっぱり母には長生きして欲しい。今まで全然親孝行出来なかった分、これからいっぱいしたい。

気付くのが遅すぎたけど、まだ終わりたくない。母に希望を持って欲しい。

「神様助けてください。私も頑張ります。母は既にたくさん頑張っています。どうかよろしくお願いします。」

 

私はネガティブな気持ちをブログにたくさん書くつもりですが、言霊の意味でも良いエネルギーが循環するような言葉も使っていきたいと思います。

このブログを見てくださった方の状況が、良い方向にいくことをお祈り致します。

皆様が平穏な一日を過ごせますように。

抗がん剤治療 「タグリッソ」

こんにちは、もち丸です。

 

いきなりですが最近ちょっと疲れています。先週は母の通院に付き添い、今週は脳腫瘍治療後の定期検査です。

それと今転職活動が上手くいかず、精神的にキツイですね~。仮に決まっても「母の通院に付き添えなくなるなぁ」とか「ブランクあるし大丈夫かなぁ」等、不安は尽きません。

今は「千里の道も一歩から」を胸に、一日一日出来ることを積み上げます。

 

さて今回は抗がん剤「タグリッソ」についてまとめました。

母にとっては初めての抗がん剤治療ですが、家族にとっても抗がん剤治療というものには怖さがあります。テレビ等による何となくのイメージがありますし、インパクトが強い言葉ですからね。

それでは本編をご覧くださいませ。

 

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1、初めての抗がん剤

このタグリッソは毎日服用するタイプの飲み薬です。ただ治療開始直後、いきなり問題が発生してしまいました。服用し始めてから2、3日後、母に蕁麻疹が出てしまったのです。

母や私達にとって初めての抗がん剤治療。事前に予想される副作用の説明はされましたが、念の為先生に相談することにしました。

 

そして先生によると「恐らくは薬疹でしょうね」とのこと。結果一週間ほど休薬することになりました。

私達は治療がストップする事に不安を感じ、先生に「この休薬期間中にがんが悪化しませんか?」と聞きました。

すると先生は「治療の目的は完治じゃないんです。(もち丸母)さんが元気に長生きする時間を長くすることなんです。そこは間違えないでください。ここで無理して具合が悪くなったら本末転倒ですよ」と言いました。

 

それを聞いて「あー、やっぱり完治は難しいんだ。俺達に期待はするなってことなのか」と落ち込みました。

 

私達だってそれが正論かもしれないことは理解しているんです。でも伝え方に配慮して欲しいんです。

確かに状況によっては正論・論理によって物事を説明し、相手に納得してもらわなければならない事は多々あります。でも私達人間は、結局どこまでいっても感情の生き物です。

そして私達はがんという病気になった時点で不安や恐怖を抱え、言葉に敏感になっています。

その為私は「正論よりも気持ちに沿った言葉を使って欲しい」と、切に願います。

先生だって身内が病気になったとしたら、かける言葉は少し違ってくるのではないでしょうか。

 

さて蕁麻疹の話に戻りますが、一週間程休薬すると蕁麻疹は治まりました。やはり薬疹だったようです。でもここで治療を終わりたくはありません。一週間後の診察にて、タグリッソ服用が再開出来ることになりました。

 

 

2、治療の効果

結論から言いますとこのタグリッソ、かなり効いてくれました。

ちなみにがんについては治療薬を決定する際、予めいくつか薬の候補を決めるそうです。一番最初に使う薬(一次治療)、二番目に使う薬(二次治療)…といった具合に。

そして母の場合、一次治療としてタグリッソ治療の効果があったのです。

原発巣の肺の腫瘍は半分以下の大きさになり。その他の部分もかなり縮小したということで、完全に安心することは出来ずとも、明るい結果に私達家族は喜びました。

「このまま全部無くなってくれないかな」、「完治して欲しい」と心から思いました。

 

 

3、母に出た副作用

治療効果が出たとは言え、薬効には表と裏、つまり全ての薬には副作用があります。このタグリッソは分子標的薬の一つで、比較的副作用が少ないと言われていましたが、母にとっては辛い副作用のようでした。初めての抗がん剤治療なので、他の抗がん剤の副作用とは比較出来ませんが。

 

そしてこのタグリッソという薬は、毎日飲むタイプです。点滴タイプの抗がん剤は投与後約1、2週間は副作用が酷く、その後徐々に落ち着いていくというイメージですが、タグリッソは毎日飲む為、休薬期間がありません。

効果がある限り、そして体調的に問題ない限り飲み続ける為、副作用から解放される時期が無いというのが辛いところです。

 

出現した具体的な副作用は以下の通りです。

・足の爪の化膿

・下痢

・足がつる

味覚障害

一般的に抗がん剤副作用として知られる「脱毛」や「吐き気」はありませんでした。

それぞれまとめてみます。

 

①足の爪の化膿

この副作用は母にとってかなりきつかったようです。化膿した部分が靴に当たり、痛くて普通に歩くことすらきつかったそうです。

主治医に相談したものの、化膿止めが出るのみ。あまり改善されなかった為、同病院の皮膚科を紹介してもらいました。

 

皮膚科の先生は化膿部分を丁寧に処置してくれ、飲み薬、塗り薬、包帯等でケアする方法を教えてくれました。それからは幾分楽になったようです。

また靴に関してもなるべく痛みが少ない靴探し(幅広等)もしてみました。全くストレスなく履ける靴は無かったのですが、少しは楽に履ける靴を見つけられたのは良かったです。

 

②下痢

これに関しては説明不要だと思います。これに対処する為に胃腸薬、下痢止め等が処方されました。ただそれらの薬を服用していても下痢は続いていたので、外出等にも億劫になっていました。

ただヨーグルトやヤクルトを続けていると、少し調子が良いかもと言っていました。

 

③足がつる

これも母は結構辛そうでした。対処としては水分(出来ればスポーツドリンク)をしっかりと取るように言われ、つったときの頓服として漢方薬芍薬甘草湯」が処方されました。

漢方は即効性があるというより、徐々に体質改善をするというイメージがあるかもしれませんが、この芍薬甘草湯は即効性があり、私自身スポーツをしていて足がつった時は、この漢方を飲むと比較的すぐ治まってくれます。

 

とは言え母に関しては飲んでも効かない時もあり、特に就寝時に足がつって目が覚めることが度々あったようです。

ちなみに医師から勧められていたスポーツドリンクですが、母は昔からスポーツドリンクが苦手で、何度勧めても飲んでくれませんでしたね。(泣)

 

味覚障害

食欲低下はあまり無かったものの、何を食べても今一つ味が感じられないと言っていました。また食感に関しても何を食べてもパサパサするとのことでした。

加えて口内炎もあちこちに出来、食事自体に加え調理の際の味見にも苦労していたようです。私も料理を手伝う中で味見をよく任されましたが、以前なら「びしっ」と決まっていた味付けが、なかなか決まらずもどかしいようでした。

 

 

4、脳腫瘍再発

順調に見えた治療ですが、タグリッソ治療中に一度脳腫瘍の再発がありました。ガンマナイフ治療を行った病院での定期健診(3ケ月に一度)でわかったのです。

ただ今回は以前脳腫瘍になった時のような、外から見て明らかにおかしいとわかるような症状はありませんでした。

ただ「頭痛がする」、「なんかおかしい」というようなことを言っていました。

 

脳神経外科の先生曰く、「抗がん剤治療しているにも関わらず転移するってことは、肺がんの勢いが強いんだね」とのことでした。

これは結構ショックでしたね。タグリッソ治療が順調のようでも、やはり「完治していない以上転移の可能性は常にある」ことを思い知らされた感じでしたから。

「もしかしたらこのままがんが治るんじゃないか」と期待していた部分があったので、本当にショックでした。

 

とはいえ前回脳腫瘍が出来た部分の再発は無く、大きさもガンマナイフで対応出来る大きさだった為、即座に入院・治療日を決めることが出来ました。

今回のガンマナイフ治療に関しては軽くの記載に留めますが、結論から言うと治療は成功し、後遺症もなく無事終えることが出来ました。(過程は前回とほぼ同じです)

ですが「また再発するんじゃないか」、「放射線が当てられない状況になるのではないか」という考えは常にあり、心から落ち着く日はなかなか来ないなと思いました。

 

 

5、タグリッソの効果が落ちてきた...

順調に効果が続いていたタグリッソですが、その効果が落ちてきていると主治医から言われました。

抗がん剤はいずれ薬に対する耐性が出来てしまい、効果が落ちてくる可能性が高いということは頭では分かっていました。その期間は個人差が本当に大きいそうですが、母は約8カ月で落ちてきてしまったのです。

 

それを聞いて私達は本当にショックでした。

一番最初母にがんがあるということがわかって、しかもそれがステージ4という時点で私達は打ちのめされています。それからは何とか希望を集めて日々過ごそうとしている中、その集めた希望の欠片が砕かれた思いでした。

 

抗がん剤治療を行う人と家族が願うのは、「なるべく副作用が軽くあって欲しい」、そして「長い期間薬が効いて欲しい」という事だと思います。

私達家族も例外なくそう願っていましたが、薬の効果が一年持たなかったというのはかなりショックです。こういうのって残酷ですね。

 

そうすると次は別の抗がん剤治療、つまり二次治療に移ることになります。

私達も不安はありましたが家族で話し合い、この病院で二次治療を受ける決断をしました。

 

 

6、最後に

少し長くなりましたが今回の記事はここで終わりになります。次回は二次治療の抗がん剤治療についてまとめるつもりです。

先に言ってしまえば二次治療で使う抗がん剤は、「アリムタ」と「カルボプラチン」という点滴タイプの抗がん剤です。

 

それにしても正直な話、看護というかサポートする家族もかなり疲れますし、しんどいですよね。(あ~、言っちゃった)

治療を受ける母は間違いなく大変です。その心境や心身の痛みは当事者にしかわからず、変わってあげることも、100%の理解も出来ません。

 

でも私も疲れます。キツイです。

 

私は当時(今もですが)就職活動中でした。そして以前自身が体調を崩したことでブランクや短い職歴があり、色々と苦戦していました。

その為例え母の病気がなくとも、自分のことだけでも精一杯だったと思います。

 

今は母と一緒にいられる幸せを以前よりも強く感じますが、同時にそれを失ってしまうかもしれないという恐怖が常にあり、心から落ち着く日は一日もありません。

正直かなりキツイ、マジでキツイ。本当に人生は公平ではないなと感じます。

人生は比較出来るものではない。それぞれが人からは見えない苦労を抱えていることは頭では分かっている。でも家族ががんになって、しかもステージ4って結構きついです。

泣きたい、泣いてもキツイ、「完治するかもしれない」という希望が欲しいです。

最近は散歩やランニングの途中で神社を見つけると、そこでお参りして母のことをいつも祈ります。

 

どうか母の病気が治り、心身に健康と平穏が訪れますように。

初診、がん治療が始まるまで

皆様こんにちは。もち丸です。

 

最近私は季節の変わり目ということで、少々体調を崩し気味です。

個人的にコロナ禍の影響で生活リズムが崩れる危機感は強く持っており、運動、睡眠、栄養等のバランスに気を付けてはいるのですが、この気温差はキツイです。

皆様も色々と落ち着かない時期かもしれませんが、なんとか心身のバランスをとっていきたいですね。

 

さて前回の記事では、母の脳腫瘍の初期治療を振り返りました。今日は肺がん、つまり原発巣がわかるまでの一連の流れと、治療に入るまでの様子を振り返ります。

恐らく複数回の記事になると思いますが、引き続きマイペースで更新していきたいと思います。

 

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1、がん病院の初診

前回の記事では、脳腫瘍に対するガンマナイフ治療を終えたところまで書きました。

私達はその時点で、がん全体を診てもらう病院(以下がん病院)に初診予約を入れている状態でした。

かかりつけ医から紹介された病院(脳神経外科)でがん病院に電話予約をした際、呼吸器内科の予約を入れてもらったのです。

そしてがん病院の初診日はガンマナイフ治療を終えてから約2週間後だったと思います。その間母の調子は日に日に良くなっていき、がん病院初診日には、以前の母とほとんど変わらない状態まで回復していました。

 

そしていよいよ初診日となったわけですが、初診日にはあまり進展はなく、主治医との初面談と、精密検査の検査日予約を入れて終わりだったと思います。

希望を持てたという心境では全くありませんでしたが、ここから母と家族の本格的な治療生活が始まることとなります。

 

 

2、様々な検査

そして母の病気の正確な状態を特定する為に、いくつもの検査を行いました。

覚えているだけでも「生検」、「PET検査」、「全身CT」、「遺伝子検査」等々、多くの検査を行いました。簡単に言ってしまえば「体のどこにがんがあるか」「どんな種類のがんなのか」「どの治療法が良さそうか」を特定する為の検査ですね。

 

それらの検査の中で私がショックを受けたのは、肺部分の腫瘍の生検です。生検は肺から直接がん細胞を採取する為、機器を挿入する前に全身麻酔をします。

その採取検査が終わった後、ストレッチャーに寝た状態で母が出てきたのですが、検査とは頭ではわかってはいたものの、ピクリとも動かない母を見るのはとても心臓に悪いものでした。

その後麻酔が切れて母が意識を取り戻した時は、物凄くホッとしたのを今でも覚えています。

 

 

3、検査結果告知

そしてとうとう検査結果が告知される日が来ました。もう怖くて不安でたまりません。

そして先生から検査結果の告知。

結論から言うと肺せんがんのステージ4。膵臓、リンパ節、腰椎に転移があり、手術は出来ないという事でした。さらには治療計画書には信じられない文字が。

 

「完治は期待出来ない」

 

「は?完治は無理?」。その文字を見た時悲しみと怒りが出てきました。

「マジでふざけんな!しかもそんなこと紙に書くなよ!」

 

例え事実がどうであろうと、もう少しこちらの心境に配慮して欲しいと思いました。それは嘘をついて欲しいということとは少し違います。

その言葉を聞いただけで患者やその家族がどれだけ傷付き、打ち砕かれるか…

心は体と結びついています。例え状況が難しいのだとしても、これから治療に入る私達の心をくじかないで欲しいと思います。

 

とは言え私達に選択肢はありません。現時点でセカンドオピニオンを受けることも考えませんでしたし、まずは提示された治療を受けてみようと決めました。

 

でも私は「完治は期待出来ない」という状況をすんなり受け入れることは出来ません。確かに医師は知識・臨床経験は豊富でしょうし、私達医療の素人は反論出来ません。

しかし人の体がどうなるかは誰にもわかりません。私は現在の状況は厳しいということは理解しつつも、奇跡を信じます。

「このまま終わりなんて誰が受け入れられるか」です。

 

 

4、これからの治療について

そして母がこれから臨む治療は抗がん剤治療です。

母に提示された第一次治療は分子標的薬「タグリッソ」でした。一口に抗がん剤と言っても、その薬効・メカニズムは抗がん剤によって様々です。

 

通常の抗がん剤は全身をくまなく叩く為、上手くはまれば大きな効果が期待出来ますが、健康な細胞まで攻撃してしまいます。そのダメージが様々な副作用となって現れるわけです。

それに対してこの分子標的薬はがんに関わる特定の細胞のみを標的にする為、従来の抗がん剤と比べると比較的副作用が少ないと言われています。(もちろん個人差がありますが)

 

またこのタグリッソは飲み薬である為、入院せずに自宅で過ごすことが出来ます。もちろん気を付けなければならない点もありますが、母は入院せずに自宅で過ごせることを喜んでいるようでした。

そして抗がん剤以外にもカルシウム剤、ランマーク注射、副作用軽減の為の各種薬を備え、いよいよ母の治療が始まります。

 

 

5、私の心境

この一連の流れを経験した私の心境ですが、とても一言で言えるものではありません。

まず一番辛いと感じたのは、治療目的が完治ではないという事です。仮に完治を目指せるのであれば、「完治の為になんとか乗り切ろう」と思えるのですが、それが出来ない以上、治療を続けるモチベーションが心配でした。

 

私は母の心境を完全に理解してあげることは出来ません。私自身長きにわたり神経症自律神経失調症に苦しんだ時期があり、その辛さを家族に100%理解してもらうことは出来ませんでした。もちろん簡単に「わかるよ」と言って欲しくもありませんでした。

そのような経験から、軽々しく人の痛みをわかったような言葉を使うことは出来ません。やはり病気の本当の苦しさは、経験した人でないと分からないと思います。

 

もちろん母を心配する気持ちは100%間違いありませんが、結局は母の苦しみや胸の内を理解することは出来ない。どこまで踏み込んでいいのかわからず、とてももどかしいです。

 

それでも私は希望を持ちたいし、母にも希望を持って欲しい。でも母には無責任な励まし等出来ない。そう思い泣きたい気持ちでした。

母もこの苦しい治療を終えた先に完治が待っていると思うことが出来れば、治療に対しても少しは踏ん張れるかもしれない。でもそれがない。本当に残酷な言葉をかけられた気分です。

 

母にも「この治療をすれば半年は寿命が延びるかもしれない。そして半年あれば医学は進歩するよ」と言った言葉をかけるのがギリギリです。

私自身が、何か母が長生きしたいと思うようなものを提示出来ればいいのですが、今は何もない。焦るばかりです。

 

でも私と同じように家族が病気になった人には通じると思うのですが、例え医者から「完治は難しい」等の言葉を聞いたとしても、素直に覚悟しきることが出来る人はいないと思うのです。

「やっぱり厳しいのかな」という覚悟しないといけないような気持ちと、「奇跡は起きる」という希望の間を行ったり来たりするのではないでしょうか。

少なくとも私には覚悟しきることは出来ません。

私は頭の片隅に「良くない未来の可能性」を置きつつ、奇跡を信じます。

私は母ともっと一緒にいたい、母にもっと自分がしっかりとした姿を見せたい、母に親孝行をしたいと思います。

終わって欲しくない、諦めることなんて出来ない。でも怖い、苦しい。

これが私の率直な想いです。

 

 

6、最後に

今回はがん病院での初診と、治療方針決定までをまとめてみました。

正直色々思い出すのはキツイですが、今の心境を吐露する場所作りの為にも纏め切ろうと思います。いやぁなかなかしんどい。

 

それにしても私は母ががんになるなんて、全く思いもしませんでした。どちらかというと重度の喘息持ちの父の方を心配していたので、防御していた全面ではなく、ノーガードの後ろからクリティカルヒットをくらったという印象です。母が大病を患うなんて全く予想していませんでしたから。

 

それにしても良くも悪くも母が病気になってから、とても濃い時間を過ごしていると思います。正直距離が近すぎる上にコロナの影響もあって、ストレスがたまる日々でもありますが。

 

正直精神状態は結構ギリギリです。それでも日々母と笑いあったり、口喧嘩したり出来ることには幸せを感じます。もっと早くこのありがたみに気付いていれば、今の自分とは少し違った形になっていたかもしれないと思うと、悔しさや後悔の念も大きくあります。

とにかく今はコロナの収束を祈りつつ、今出来ることを一つずつやっていこうと思います。

ガンマナイフ治療について

皆さんこんにちは。もち丸です。

前回は母にがんが見つかり、「頭部」と「頭部以外」をそれぞれ別の病院で診てもらうことになったというところまで述べました。

今回は頭部、脳腫瘍についての病院での診察、及びその後の治療までをまとめていきます。

少し長文になりますが、どうぞご覧くださいませ。

 

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1、初診日まで

病気発覚時における「かかりつけ医→大病院の脳神経外科」までの経過は前回の記事で述べました。

私達家族は大病院で告知を受けた後、その場ですぐにガンマナイフ治療が受けられる病院に電話しました。この病院(以下A病院)が姉の頭にあったのは本当に偶然です。

 

幸い同じ県内で車で何とか通える距離。初診日は3、4日後とかなり早く入れてもらえました。

予約後は紹介状と画像データを受け取り帰宅しましたが、帰宅後から初診日までの記憶はあまりありません。私達は初診日までは何もする気が起きず、とにかくその日を待ちました。

 

 

2、初診日当日

初診日私達はA病院まで家族全員で行き、自分達の順番を待ちました。

そしていよいよ診察前の、母の頭部MRI検査が始まりました。その後しばらくして母以外の家族が先生に呼ばれました。

もうこの時点で嫌な予感しかしません。

 

初めての先生との対面、もう怖い、しんどい。不快な感情しか湧いてきません。

そして先生から言葉が告げられます。

 

内容は大きく分けて以下の三つです。

①脳腫瘍の転移はとても多いが、一個一個の大きさはそれほどでもない

②現在の認知症状は、脳腫瘍が出来たことによって起きる脳浮腫(むくみ)から来ている

③手術は難しい

 

脳腫瘍は出来た部位に応じて様々な症状を引き起こします。ただそれ以前に脳腫瘍が出来たことで脳全体がむくみ、頭痛や意識障害、食欲低下等が引き起こされるそうです

そして脳腫瘍は他臓器からの転移であることが多く、恐らくは肺であるが早めに原発巣を特定した方がいいと言われました。

そしてこのままでは年内が危ないことも…

 

もう絶望でした。やはり手術は出来ないのか。このまま変わってしまった母のまま、以前の母には戻らないのかと苦しくて苦しくて仕方ありませんでした。

 

ですが先生からわずかな希望の言葉も聞きました。

「確かに数は多いけど脳幹等の今すぐ命にかかわる部分に腫瘍は無い」こと。そして「手術は難しいけど、ガンマナイフ治療なら可能性がある」と。

 

 

3、入院治療開始まで

先生によると脳腫瘍の数はかなり多いものの、一個当たりの大きさはそれほど大きくなく、一番大きい腫瘍もガンマナイフでカバーできるサイズだと言うのです。

逆にこれ以上大きくなっていたら、ガンマナイフでも難しい状況だったらしく、正にギリギリ間に合ったということでした。

 

でも私は先生の話を聞いても、安心はあまり出来ませんでした。

何かを期待して、それが崩れることが怖かったのです。

 

それでも一つ目標が出来、具体的な治療が出来る。私達に選択肢はありませんでした。

その後別室で母と合流し、ガンマナイフ治療を受ける手続きに入ります。

母は状況が理解出来ていないようでしたが、私達家族はもうその治療にかけるしかありませんでした。

 

さて治療は入院しての2泊3日で行うのですが、その前に大事なことがあります。

今母は脳腫瘍によって脳全体がむくんでいる状態ですが、ステロイド服用によってむくみをとり、正確なガンマナイフ治療を行なえる状態にするのです。

先生曰く「薬を飲むと意識も食欲も少しずつ戻っていきますよ」とのことで、この言葉には救われる思いでした。

 

そして初診日から入院までの約1週間、薬を服用した効果がハッキリと出てきました。

症状が全て無くなくなったわけではありませんが、徐々に食欲が出てきて、頭の回転も戻ってきたのです。そして感情の起伏も少し回復し、会話によるコミュニケーションもある程度取れるまでになりました。

 

もう私はそれだけでも嬉しくて嬉しくて...

もうこのまま以前の母に戻らないまま、最悪の事態を迎えるかもしれないと考えていたので、先生が神様に思え、これから始まる治療にも期待を持ちました。

 

 

4、いよいよ治療開始

薬服用により脳のむくみが取れたことで準備が整い、いよいよ治療が始まります。

治療は2泊3日の入院で、2日目にガンマナイフ治療を行います。

 

私達家族は3日とも付き添いましたが、2日目は色々と大変でした。

当然のことながらガンマナイフ治療は、正確な位置に正確な量をピンポイントで狙う必要があります。わずかな誤差も許されません。

その為治療中に頭部が少しも動かないよう、2日目は朝から金属フレームを頭部につけ、それをネジで固定するのです。(結構痛そうでした)

そしてその状態で治療までの約半日を過ごす為、転倒防止の為、移動は常に車イスです。また1日目から常に点滴のチューブを着けたままになることと併せて、ちょっとした行動も大変でした。

 

幸い担当看護師さんを始め、病院スタッフさんにはとても親切にしていただきました。

私自身は元々心配性で、疑問点は全て確認せずにはいられない性格なのですが、看護師さんも医師も私の質問に丁寧に答えてくれました。

 

とは言え治療に関しては不安だらけです。開頭出術ではないとは言え、リスクのない治療はありません。思いがけない後遺症が出る可能性もありますし、治療効果が期待通りに得られない可能性だってあります。

何より手術が出来ない中で、この治療が上手くいかなかったらと考えると怖くて仕方ありませんが、私達にはこの選択肢しかない。もう祈ることしか出来ません。

 

さていよいよ母の番になりました。治療時間に関してはなにぶん数が多いので、通常よりも時間がかかるとのこと。私達には待つことしか出来ません。

 

治療開始前に改めて医師から説明があり、母の治療中は病室で待つこととなりました。その間スマホゲームをしたり、本を読んだりしましたが全く頭に入りません。

そして何時間か後、車イスに乗った母と看護師さんが病室に戻ってきました。

 

 

5、治療終了後のかすかな変化の兆し

私は医療の専門家ではない為、ガンマナイフ治療に対する見解に関して、間違っている部分が多々あるかもしれません。その点はどうかご了承ください。

 

ガンマナイフ治療というのは放射線治療の一種で、その場で腫瘍を取り除く類の治療ではありません。そしてその効果は即効性があるというよりも、数か月、年単位で照射した部分の腫瘍に効いていくというイメージだそうです。そのせいか治療を終えた母の様子は、治療前の母と大きく変わった印象はありませんでした。

ただ担当医師によると、現在確認出来る部分には全て対処することが出来たとのことでした。そして次の診察は一か月後、その間に頭部以外の部分を、他の病院で診てもらってくださいとのことでした。

 

正直「えっ、もう終わり?次に診てもらうのは1か月後でいいの?」って感じです。

とはいえ丁寧に対応してくれた医師の言葉でしたし、「その間しっかりと薬を飲んでいけば、恐らく元気になっていくと思いますよ」との嬉しい言葉をもらいました。

とは言え病気全体については「原発巣はどうなっているのか」、「転移の有無」等、問題は山積みです。

それでも「このまま終わってしまうのか、元の母に戻らない状態で最後になってしまうのか」という絶望を感じた私達にとっては、先生の言葉は唯一の希望でした。

 

2日目治療を終えた後は母も疲れているだろうし、私達も疲れていた為、早めに帰ろうと病室を後にしようとしました。

その時「これは治療の効果か?」という、思いがけないことがありました。

母に帰るねと言って病室から出て行こうとした時、結構強い力で母に袖を引っ張られたのです。治療前母は全体的に動きが散漫になっており、強い意志ある行動というのが見られない状態だったのです。その為私は驚いて振り向くと、母が力強い目をして私の袖を引っ張っているのです。

 

「凄い、こんな目久しぶりに見た。加減が出来てないみたいだけど母だ!」と思いました。私は泣きそうになり、明日迎えにくるからねと言って、帰路につきました。

 

 

6、退院

そして翌日の退院日。母はまだ感情が乏しい様子ですが、退院の際、看護師さんにお礼をしていました。この病院を初めて受診した時の母とはまるで別人です。

やはり辛く苦しい時には、小さな希望にも救われる思いがしますね。

 

そして退院前の先生との面談。「これから少しずつ元の元気な状態に戻っていくと思います。原発巣の状態によっては再発もあると思いますが、定期的に見ていれば大事になる前に対処出来るので、安心してください」と言われました。

この時先生が神様に見えましたよ。私達は「まずは一つクリアした」という思いでした。

 

結果論になるのですが、後のがん治療が始まる前に頭部を治療出来たことは、これからの治療にとって良いスタートとなりました。

もし順番が逆で頭部が後になっていたら、ガンマナイフでも対応出来なかった可能性が高かったからです。その意味でも最初の病院での診察後、すぐにこちらの病院にアプローチ出来たことは本当に良かったです。

 

 

7、退院後の経過

退院後しばらくは家事等は母以外で分担し、母にはゆっくりとしてもらいました。

そうして1週間、2週間と時間が経つにつれ、母の調子が明らかに良くなっていきました。

少しずつ笑顔が出始め、家事にも徐々に参加するようになり、治療前には興味を失っていた趣味にも興味が戻ったようです。

私達はそれが本当に嬉しかったです。

 

その後は日数が経過するにつれ、どんどん昔の母に戻っていく印象でした。後遺症として頭痛と脱毛が2、3週間程ありましたが、それも徐々に治まり、退院後1ケ月後位には、以前と変わらない母になっていました。

このガンマナイフ治療に関わってくれた関係者の皆様には、感謝しかありません。

この先どうなるかはわかりませんが、母と日々を普通に過ごせる幸せは、一生忘れられないと思います。

 

 

8、最後に

今回は母のがん治療の第一歩目、ガンマナイフ治療について書きました。次回以降は本治療である原発巣を含むがん全体の治療経過を、書いていきたいと思います。

 

脳腫瘍についてはその後2回再発がありましたが、いずれもガンマナイフ治療で対処出来ています。それらの経過は別記事で書くつもりです。

基本的に脳は様々な脅威から自らを守る為、良くも悪くも防御フィルター機構があるそうです。その為抗がん剤の効果が届きにくいそうです。

 

またガンマナイフは同じ部位に、何度も同じ強さで照射することは難しいそうです。

そしてガンマナイフは年単位で効き続ける為、一度照射した部位にもう一度腫瘍が出来るということは、原発巣のがんの勢いが強いという事を示すとともに、再度のガンマナイフ治療の難易度も上がります。

母も以前照射した部位に再発したことがあり、やはり原発巣が根治出来ていない以上、転移や再発の心配は常にあるということで、結構きついです。

 

とは言え現時点で1年半程脳腫瘍の再発はありませんし、このままコントロール出来ればいいなと心から思っています。

 

私達はガンマナイフ治療という存在を知っていたからこそ、今回の結果に繋げることが出来ました。

とは言えある意味医療の素人である私達は、限られた時間と選択肢の中で、常に最善の選択をし続けることは、はっきり言って不可能だと思います。

そして一つ情報を知っているか知らないかで、人生は全く違う結果になり得るということを怖く思います。同時に知っている事で新たな可能性が生まれることはありがたいことでもありますね。

 

今回の記事は以上になります。

早くこれまでの経過を一通りまとめて、今の不安や愚痴をたくさん書きたいと思っています。(笑)

振り返り① 「母の病気発覚」

皆様こんにちは。もち丸です。

 

最近は寒暖差が大きくて体にこたえますね。私は暑いのは割と平気なのですが、寒さと温度差には弱く、最近は眠かったりお腹を壊したりと、体調は今一つのような気がします。

6月のこれから暑くなるという時期が懐かしいですね…

 

さて今日は母のがんが分かった時、今から3年程の前の話を書いていきます。

前後の記憶は少し曖昧な部分がありますが、病気を告知された時のことは今でもハッキリと覚えています。

少ししんどい振り返りでもありますが、まとめていきますので、どうぞご覧ください。

 

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1、母に起こった最初の異変

母の病気が発覚した2018年8月、私は昨年末に前職を辞め、就職活動真っ最中でした。

その2か月程前から、母に認知症のような症状が出始めたのです。

具体的には「火を消し忘れる」、「感情の起伏が乏しくなる」、「冷蔵庫の食材の期限がわからなくなる」等です。他にも「食事の際、橋を持った右手が上下に揺れるように動く」、「普段丁寧な料理を作る母が、質素な料理しかしない」等の症状もありました。

他にはうつ病のような趣味への興味喪失もあり、家族から見ても明らかに普通ではないとわかる状態になっていました。

 

当時私は「火だけは本当に気を付けて!!」と強い口調で度々母に注意してしまったので、「悪いことを言ってしまったなぁ」という罪悪感が今でもあります。

 

当時母は70歳、もしかしたら認知症になってしまったのかもしれないとショックを受け、私達家族は一度かかりつけ医に診てもらおうと、何とか母を病院に連れて行こうとしました。

ところが母は元々病院嫌いなことに加え、当時「自分でも自分の状況を理解出来ていない状態」のようで、なかなか病院に行ってくれません。

そして私も父も北風と太陽で言えば北風。言えば言うほど母は頑なになってしまうと思った為、姉に今度の土曜日に診察に付き添ってもらうことにしました。

 

ところが受診予定日の前日、母は一人で歩いて病院に行ってしまったのです。

私はその日就職活動で外出の予定があった為、その後のことを父に任せ出掛けました。

 

 

2、父からの連絡

当時自分の予定をこなしていた私の携帯に、父から電話が入りました。

嫌な予感がして電話に出るのが怖かったのですが、電話に出たところ内容は予想外のことで、父から信じられない言葉を聞きました。

「脳腫瘍が酷く、来年までもたないかもしれない」

 

私はその時胸がぐっと苦しくなり、理解しきれませんでした。

認知症じゃないの?脳腫瘍?年内?」

 

どうやらかかりつけ医で簡易的な認知機能検査を受けたところ、すぐに大病院の脳神経外科を紹介されたらしいのです。

そしてMRIを撮り、脳腫瘍が発覚したとのことでした。

 

電話を切った私は急いでその病院まで行くことになりました。心臓はバクバクです。

電車に飛び乗り、最寄り駅からはタクシーを呼び、もうとにかく病院に行かなければという思いだけでした。

その後姉も職場から駆け付け、母を除く3人で先生から話を聞きました。

 

「脳腫瘍の数がとても多く、うちではもうどうしようもない。恐らく原発巣は肺でしょうね」と言われました。

もう信じられません。認知症ではなくがん。しかも転移?手術出来ない?治療も出来ない?

意味わかんねー。わけがわからん。

家族3人が絶望を感じたと思います。

 

 

3、転院の決断

ただ私達家族は当然そんなこと受け入れることは出来ません。かといってどうしたらいいかもわかりません。担当した医師にも配慮が欠ける印象があった為、他の病院に相談しようということになりました。

 

また別の記事でも書くと思いますが、今思えばここが一つ目のターニングポイントだったと思います。

 

まず一つ目、脳腫瘍に関して。

脳腫瘍に関しては姉が「ガンマナイフ治療」という、脳腫瘍に強い放射線治療をやっている病院のことが頭の隅にあったらしく、まずはその病院にその場で電話することにしました。

すると即座に初診日時の調整をしてくれ、診察日を待つことになりました。

 

そして二つ目、頭部以外について。

これは昔父ががんの疑いで、がん専門病院にかかったことがあった為、その病院に相談することにしました。こちらは初診日時まで少し日数がかかることになりました。

 

母は私達の顔を見ても状況が分からないようで、私達家族4人はこれからどうなるのかわからないまま、不安と共にその日は家に帰ることになりました。

目の前にいる母ががんなんて…本当にきつかったです。

 

 

4、最後に

今回の記事では母の病気が見つかった前後の時期をまとめてみました。

今後母は病気に関して「頭部」と「頭部以外の体全体」の二つとして、二か所の病院で診察を受けることになります。

今思うとこの判断がその時出来る範囲での、ベターな選択だったように思います

 

今回の記事でそれぞれの病院の初診について書いてしまおうかとも思いましたが、長文になりそうなので、ここで一旦記事を区切ろうと思います。

次回は「頭部」に関する初診とその後の流れについての記事にする予定です。

 

それにしても今思い返してもやはり心臓に悪い、結構苦しい記憶です。

なかなかキツイ振り返りでもありますが、まずはいったん振り返りを書ききってしまいたいと思います。

それではまたの機会に!

簡単な自己紹介です

皆様初めまして。もち丸と申します。

 

まず初めに軽く私自身のことをお話させていただきます。

私は現在30代後半、転職活動をしながら同居する家族と共に母のサポートをしています。

 

私は新卒時に入社した企業で体調を大きく崩したことがきっかけで自分の立ち位置が落ち着かない時期が長くあり、私自身が苦しかったことはもちろん、母にもずっと心配を掛けてきたと思っています。

そして本当に遅まきながら、当たり前だと思っていた日常がとてもありがたいことであること、時間には限りがあることを心から痛感しました。

「もっと早く自立出来ていれば」「早くしないと間に合わない」「自分が心配かけ過ぎたことで母は病気になったんじゃないか」等々、後悔や不安、罪悪感が消えません。

今は母に長生きして欲しいと心から思います。

 

そして母について。

私の母は2018年夏、肺がんステージ4との診断を受け、現在抗がん剤による治療を行っています。

最初にがんが見つかったきっかけは、母に認知症のような症状が出たことです。

始めにかかりつけ医にかかり、その後大きな病院の脳神経外科を紹介され、そこでMRIを撮ったことで転移性脳腫瘍が発見されました。

その時点で脳腫瘍は複数あり「その病院では手術出来ない事」、詳しいことは検査してみないとわからないが、「原発巣が肺ではないか」ということ、「他臓器への転移」が既にあることが明らかになりました。(このあたりの詳細はこれからの記事で書いていきます)

 

そして転院後の病院で、最初の治療方針を決める際に、「手術は出来ないので抗がん剤治療を行う事」、「完治が目標ではない事」を告げられました。

率直に言って絶望です。「まさか母さんが!」、「手術出来ないってなんだよ!」と思い、精神的にボロボロな状態になりました。

 

母の病気発覚後から今まで約3年、治療過程で薬の効きが落ちたことによる治療法変更や脳腫瘍の再発等々、様々なことが起き、心から気が休まる時はありません。

 

現在は抗がん剤による治療を行えているものの、完治は期待出来ないという絶望的な言葉を聞いている為、先のことを考えると本当に怖くて怖くて仕方ありません。

それでも完全に受け入れることは出来ません。今は最悪の事態を常に頭の片隅においているものの、覚悟を決めきることは出来ず、不安と期待の間を揺れ動いていて、とても苦しいです。

 

それでも人の体がどうなるかということは誰にも分からない事です。

私は奇跡を信じます。そして母と過ごせるありがたみを感じながら、日々丁寧に過ごしていきたいと思っています。

 

 

私はこのブログを自分の気持ちを吐き出す場所として使います。同時に同じような状況にある方にとって少しでも参考になればとの思いもあります。

記事の内容については現在の様子に加えて、これまでの出来事についても振り返りながら書いていく為、記事の掲載と時系列がかみ合わない時もあると思います。

また感情が乱れ、お見苦しい文章になることもあると思いますが、マイペースで綴っていきたいと思います。

 

それでは改めてよろしくお願い致します。