皆さんこんにちは。もち丸です。
最近は物凄くバタバタしていて、落ち着かない日々を過ごしています。マジでキツイ!
詳しくは後述しますが、6月頭から母の調子が一気に崩れて入退院を繰り返し、現在は緩和病棟に入院しています。
間違いなく今までで一番の修羅場です。
少し長文になりますが、自分の気持ちを吐き出す意味でも、文章を書いていきます。
- 1、状況が崩れた日
- 2、肺炎発症、修羅場の始まり
- 3、事態急変の兆し
- 4、更なる絶望の更新
- 5、なんとか繋いだ希望
- 6、再び地元の病院に転入院
- 7、不安がなくなったわけじゃない
- 8、生きてくれるだけで嬉しい。でも本音は…
- 9、最後に
1、状況が崩れた日
この激動の一番最初のきっかけは、6月初め肺炎発症から始まりました。
最初体調が悪そうな母を見た時は、「今ステロイドを減らしているからその影響かな?」と思いました。
ところが段々と意識ももうろうとしてきたようで、ただごとではない感じがして、救急車に来てもらいました。
母は近所の噂好きの人のことを気にしていたので、出来れば直接病院に連れて行きたかったのですが、それすら難しそうでした。
ただこの時結果的に自分でもファインプレーだと言える行動がとれたのですが、それは「事前にかかりつけの病院に連絡する」というものでした。まぁ実際はパニックになって、とりあえず電話しただけなのですが...
ただパニックになりながらも病院に電話したことで、受付の人がすぐさま主治医に確認をとってくれ、「救急車が来たら、うちの病院で主治医が対応する準備が出来ていると伝えてください」と言ってくれたのです。これは本当にありがたかった。これによりスムーズな病院受け入れに繋がりました。
2、肺炎発症、修羅場の始まり
診断は「誤嚥性肺炎」だろうとのことでした。
正直かなり厳しい状況であるとのことで、覚悟しておいた方がいいとまで言われました。
そして突如入院が決まり、ストレッチャーで病室まで運ばれましたが、別れ際しっかりと顔を見ることが出来ませんでした。
その時思ったことは「しまった!」です。
コロナは5類になったとはいえ、病院にとってのリスクは依然高いままであり、面会制限も続いています。
その為母の状況次第では「あれが最後の別れ」になってしまう可能性があったのです。それに気づいた時、私は怖くてたまらなくなりました。
ただこの肺炎に関しては、母は医師も驚く程の回復ぶりを見せてくれ、無事退院することが出来たのです。
この時は心の底から嬉しかった。「やっぱり母さんは強い!」と思いました。また母さんとこれまで通りの日常を過ごせることが出来ると感謝しました。
3、事態急変の兆し
そして母の体調は万全とは言えずとも、再び家で一緒に過ごせるありがたみを感じていましたが、その日々はまたしても崩れることとなりました。
まず始めは脳腫瘍の再発です。
母は抗がん剤による治療が終了してからも、別の病院で頭部の定期健診は行っていました。
治療が出来なくなっても脳腫瘍の再発が無いという状況は、私達にとって辛い状況の中での一つの支えでした。母も「頭だけは最後までハッキリしていたい」と言っていましたから。ですがその期待は一瞬で崩れました。
それは母と一緒に診察室に入った瞬間、PCに移っている画像に白い部分を見つけたからです。それを見た瞬間察してしまいました。
結果は再発です。しかも数もかなり多い。4ヶ月前は大丈夫だったのに!
もちろん再発の可能性はずっとあったのだと思います。でも心のどこかで「大丈夫」と思っていたかった。体のがんが大きくなっていたとしても、脳だけは再発して欲しくなかったです。
なんとか頭は無事な、以前の母さんのままでいて欲しかったです。
そして可能な限りのガンマナイフ治療をすることになりましたが、今回はこれまでの治療と違い、全ての腫瘍に対処することは出来ないとのことでした。つまり一時的に状態が改善したとしても、その間他の腫瘍は大きくなり続けるということです。
「これじゃあ先延ばしにしかならないじゃないか。一度でいいから脳腫瘍が0の状態になってくれよ」と思いました。
4、更なる絶望の更新
そしてショックを受けながらも、まだ治療をすることが出来るんだと前向きになろうとしていた次の日、再び事態が急変します。
朝から母の様子が明らかにおかしいのです。着替えやトイレ等のこれまで出来ていたことが全く出来ない。これは6月初めに肺炎になった時と様子が似ていた為、「もしかして肺炎の再発か?」と疑い、再び救急車でかかりつけの病院に運んでもらいました。
そして担当医から衝撃の結果を告知されました。
「肺炎を発症していて、更に脳梗塞、脳内出血も発症しています。危険な状態です」と。
体力が落ちている母にとっては、肺炎だけでも危険です。それが今回は脳梗塞?脳内出血?訳が分かりません。
「緩和ケア」+「肺炎」+「脳腫瘍」+「脳浮腫」+「脳梗塞」+「脳内出血」…
なんだこれ。頭では理解出来ても心は気持ち悪く感じている。ちょっとキャパオーバーどころじゃないです。誰が聞いたって絶望じゃないですか!
こんなん心が持つわけないですよ。「どんだけ地獄を見せてくるんだ。もうやめてくれよ」という心境です。
そしてその日急遽、緩和病棟に入ることになってしまいました。もうガンマナイフ治療どころの話ではありません。
5、なんとか繋いだ希望
私は「緩和ケア」という言葉が嫌いでした。いくら「痛みが取れれば生活の質が~」と言っても、緩和ケアは積極的な治療を行なわず、痛み等の苦痛を和らげることが目的です。
そして「母さんはもう治療が出来ないから緩和なんだろ!最後を過ごす場所なんだろ!」と思っていました。
そして入院時に、延命処置を行わない旨に同意する誓約書にサインもさせられました。
今まで数多くの書類にサインしてきましたが、これには手が震えました。父が「お前だけのサインにはさせない」と言って、連名してくれましたが...
出来れば治してほしかった。苦痛を軽減することが大事なのはわかっていますが、治って欲しかった。
ですが今は緩和ケア、緩和病棟という存在に感謝しています。(このことについては別記事で詳しく書くつもりです)
明らかに一般病棟と違う異質な感じに戸惑いもありますが、患者だけでなく家族にも寄り添ってくれる印象です。診察時間だけの付き合いではなく、私達の生活に入ってきて力になってくれる印象です。
ただガンマナイフ治療に関しては、脳出血、脳梗塞、肺炎ということもあり、治療出来ずにそのまま送り返されるかもしれない不安もありました。
ですが主治医を始めとするスタッフの皆さんが、様々な調整に尽力してくださり、無事治療を行うことが出来たのです。
今回関わってくれた皆さんには感謝しかありません。
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ちなみに補足なのですが、病院間の移動には介護タクシーを使いました。
当初の予定では私が運転する車で連れて行く予定でしたが、病院の相談員さんいわく、「運転中にお母様の状態が急変したら、安全運転にも支障が出るかもしれませんよ」とのことでした。
実際家族を病院に連れて行く途中で不測の事態が起き、それによって冷静さを失い、事故を起こしてしまうケースは少なくないそうです。
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6、再び地元の病院に転入院
そしてガンマナイフ治療を終え、元居た病院の緩和病棟に戻ってきました。
その時私が感じたことは、「あ~、ホームに戻ってきたな」という安堵感でした。
あれだけ緩和病棟に複雑な心境を抱き、辛い場所だったにも関わらずです。
その要因は私達に対して真摯に対応してくれる、スタッフの方々がいるからです。
私達が再び病院に戻ってきた時、皆私達のことを歓迎してくれたように感じました。「おかえりなさい」とも言ってくれました。
正直そのような人達のことを、一人の大人として、人間として格好いいなと思いました。それは「自分もあんな風に仕事がしたい」と憧れの気持ちを抱く程でした。
7、不安がなくなったわけじゃない
とはいえ心から安心することが出来ないのが、緩和ケアの辛いところです。
今回のガンマナイフ治療で脳腫瘍に関しては、一時的に改善がみられるとは思います。
それでも緩和ケアの大方針は、「苦痛の緩和」です。治すことが目的ではありません。
現在母は脳梗塞・脳出血の影響で、体の左側が知覚出来ない状態になっています。これは動かすことが出来ない半身不随とは違い、「空間無視」といって目は見えてるのに脳の方で情報を処理出来ない状態とのことです。その為今はほぼ寝たきりで全介助状態です。
母は昔からしっかり者・頑張り屋で、自分のことを全て一人でやってきた人です。それが今は食事や下の世話を、人の力を借りなければ出来ないのです。見ている私達も辛いですが、母もどんな気持ちを感じているのか...
母は「最期も頭だけはしっかりしていたい」と言っていましたが、それが今は難しい状態です。願わくばガンマナイフ治療によって少しでも良い方向に行きますように。
8、生きてくれるだけで嬉しい。でも本音は…
今のところ母はなんとか持ちこたえてくれています。そして生きている母を見て、「生きていてくれるだけで嬉しい」と心の底から思います。
ただ「生きていてくれるだけで嬉しい」のは間違いないのですが、正直「生きていてくれるだけでは足りない」とも思ってしまうのです。
今母はほぼ寝たきり状態です。自分の意思で動くことが出来ず、今まで好きだった漢字ナンクロや読書も出来ません。たった一か月前までは全て出来ていたのに。
今は写真を見せても焦点が合わず、意識にもかなりの波があります。
本音を言えばまた以前の母のように、一緒に話をして、一緒に家で過ごしたいです。私の愚痴や不安なことを聞いて欲しいです。これすら贅沢な望みなのでしょうか。
いつか親との別れはきます。私は覚悟は出来ていませんが、病気が病気なだけにその時は凄く遠い未来ではないのだろうなということは、うすうすはわかっています。
でもいざその時が来たと思ったとしても、私の本音は「辛い、頼む、助かってくれ」という気持ちなのです。
9、最後に
「生きてるだけで嬉しい」。
私も言葉としては今まで何度か目に、耳にしてきた言葉です。でも今は心の底からこの言葉の意味がわかります。
でも出来れば前みたいに色々と話したい、買い物に出かけたいと思います。
病院のベッドではなく、家で一緒に過ごしたいです。旅行なんて行けなくていいです。外食にも行かなくてもいいです。
ただ日常に母がいて、自分が作業している後ろで、テレビを見ながらうたた寝している母を感じる、そんな何でもない日常を心から望みます。
神様が気まぐれで、何か状況が良くなるスイッチを押してくれないかという、非現実的なことを考えることもあります。
どうか苦痛が少なく、長生きしてください。お願いします。